女性漫才師の草分け的存在だった今いくよ(2015年、67歳で死去)くるよ(24年、76歳で死去)追悼公演「きょうはどやさの日」がなんばグランド花月(NGK)で行われ、2人を慕う現役の女芸人が多数集まり、思い出話に花が咲いた。
最初に「いくよ・くるよ」を完コピした「中川家」の物まね漫才からスタート。締めは亡き2人の全盛時代の漫才をテレビ放映した際の映像を流して終了する粋な演出。

2人は生前、女芸人の先達としてその地位向上に努力。くるよの決めぜりふ「どやさ!」から『どやさの会』として年1回、後輩女芸人を集めて居酒屋を貸し切って飲み食いしながら悩みを聞き励まし合ったりした。今も当時の恩義を感じ2人の存在を忘れない後輩の熱意が結集した珍しいスタイルのイベント。

「いくよ・くるよ」がデビューした1970年当時の女性お笑い芸人は、夫婦漫才がほとんど。松竹芸能では「海原お浜・小浜」を筆頭に「春やすこ・けいこ」「海原千里・万里」が人気者となり、女性トリオ漫才「かしまし娘」も全盛期で、同様の女性トリオ「フラワーショウ」などが台頭。対する吉本興業では「若井こづえ・みどり」がいた程度だったが「いくよ・くるよ」のデビューで潮目が変わり、天才少女コンビ「やすえ・やすよ」に続いて、NSC(吉本総合芸能学院)1期生「ハイヒール」リンゴ・モモコが83年に登場、遅れて先輩姉妹の「海原やすよ・ともこ」が漫才師デビュー。国立大出身の高学歴コンビ「非常階段」シルク・ミヤコや高校生漫才「トゥナイト」なるみ・しずかなどの参入で一気に女芸人活躍の時代が訪れた。

この日は「ハイヒール」に加えシルクやなるみ、西川きよし長女かの子らが出演。「多い時は30人ぐらい女子ばかり集まったけど、いく・くる師匠が全部お金出してくれはった」「いくよ師匠はベトナムの市場行った時、店先のつけまつげ全部買いはった。くるよ師匠は仕事先でもパンやお菓子とかの食べ物が必ずあった。お腹空くと途端に機嫌悪ぅなりはったから」と思い出話し展開。

「どやさの会」復活について参加者はいずれも否定的。「お金の問題やのぅて、私たちにとって太陽や空気みたいな方やった。両師匠の人望は私たちでは無理」「何年かに一度、こうして集まって思い出すだけで喜んでくれはるはず」と遠くを見つめた。
(畑山 博史)