江戸時代、五街道の起点として「天下橋」の名で親しまれた高麗橋。幕府直轄の要衝は、物流の拠点から日本初の鉄橋へと変遷を遂げた。400年の歴史を紐解き、商都・大阪の繁栄を支えた都市機能の原点に迫る。

〝天下橋〟と呼ばれた高麗橋 街道の起終点が語る大坂繁栄史
大阪といえば食いだおれ。橋が多い町だけに、「杭だおれ」などという言葉遊びもある。それでも倒れるどころか、橋を架け、水の都として発展してきた。その中で、ひときわ異色の名を持つのが高麗橋である。かつては〝天下橋〟とも呼ばれ、大阪初の鉄橋ともなったこの橋の、由来と歩みを追ってみた。(山崎博)

高麗橋通のにぎわい
堺筋と高麗橋通が交わる交差点。その角には高層マンションと商業施設が一体となった「ザ・北浜」がそびえる。かつて三越大阪店があった場所だ。さらに時代をさかのぼると、高麗橋通には呉服屋や書物屋、麩屋、両替屋、紙屋、苧屋(麻の繊維を扱う店)などが並んでいたようだ。
呉服といえば心斎橋が思い浮かぶが、江戸時代には高麗橋通こそ呉服商や両替商が集まる町筋だった。中でも別格の存在感を放っていたのが越後屋(三井)だ。『浪華百事談』には、〝此店の他に優れるは、呉服店の向ひ北側に支店軒をならべ、糸店、鼈甲店、紐店、紅白粉店、ぬり道具店、又境筋の角の小家に鏡店あつて、婦女嫁入の拵え〟とある。ここへ来れば嫁入り支度に必要な品が一通りそろうようになっていたという。すでに百貨店に通じる商法が見られたことがうかがえ、当時の高麗橋通のにぎわいがしのばれる。そんな通りを東へ歩いていくと、高麗橋にたどり着く。

今に残る面影
高麗橋の起こりは定かではないが、豊臣秀吉が天下を統一し、大坂に本拠を置いて市街地の整備を進めた時期に架けられたとみられる。慶長9(1604)年には、擬宝珠を持つ立派な橋となっていた。
ちなみに大坂夏の陣では激戦地となり、徳川方の安藤重長が戦利品として高麗橋の擬宝珠を持ち帰ったと伝わる。その後、幾度かの変遷を経て吉田茂元首相のもとに渡り、昭和44(1969)年に大阪へ戻されて大阪城天守閣に収蔵された。
現在の高麗橋には、櫓屋敷を模した親柱や欄干の擬宝珠が配されている。かつて西詰には白壁の櫓が二つ建っていたといい、現在の橋にも往時をしのばせる意匠が取り入れられている。

幕府管理の重要な橋
高麗橋は江戸時代の大坂にあった12の公儀橋の一つ。公儀橋は幕府が費用を負担して管理した重要な橋のことで、中でも高麗橋は特に重要な橋とされていた。かつて〝天下橋〟とも呼ばれたのは、そうした格の高さゆえともいわれる。さらに諸街道の起終点でもあった。寛文2(1662)年の「大坂馬借の者ども書上候覚」には、運賃(駄賃)の算出基準が高麗橋に置かれていたことが記されている。こうした取り決めは、すでに寛永2(1625)年には定められていたという。
その後、道路の基点は中之島の大阪市役所前へ移され、昭和27年の新道路法施行後、現在は国道1号や2号などの基準となる道路元標が梅田新道交差点の北西角に置かれている。
名の由来は?
さて、「高麗」という名の由来も気になるところだ。これには諸説あり、古代に朝鮮半島からの使節を迎えるため、この付近に迎賓館が置かれていたことにちなむという説や、秀吉の時代に朝鮮との通商の中心地だったことから名付けられたという説が伝わる。いずれも確証があるわけではないが、高麗橋の名の背景に古くから朝鮮半島との関わりが意識されていたことはうかがえる。
大阪初の鉄橋
明治3(1870)年、高麗橋は鉄橋に架け替えられた。当時の大阪府知事、後藤象二郎が木橋より水害に強い鉄橋の利点に着目し、事業を進めた。しかし、日本の技術だけでは難しく、英国のオールト社に発注。ところが、どう寸法を違えたのか、橋の長さが川幅に足りず、橋台を川に突き出すように築いて何とか間に合わせたという。契約を巡る金銭トラブルも重なり、外交問題に発展したとの話も残る。
大阪で初の鉄橋となった高麗橋は評判を呼び、見物人が押し寄せた。呼び名も「高麗橋」から「鉄橋」へ変わり、大坂の町は大いにわいたという。欄干には当時の市章があしらわれた。いまの「みおつくし」ではなく、「大」の字をクローバーの葉のように組み合わせた意匠で、現在も街灯の上にレプリカとして見ることができる。高麗橋を訪れたら、ふと見上げてみるのも面白い。
高麗橋の西詰には高札場があった。道修町から出た火が迫った際、高札も焼け落ちそうになったという。それを見た芸州草津村から出稼ぎに来ていた牡蠣船屋の五郎左衛門が体を張って高札を守り、その功によって大坂市中の橋の下に牡蠣船をつなぎ、商いを営むことを許されたと伝わる。
また、紀州の薩摩上左衛門という操り人形師が高麗橋の櫓下で人形座の興行を許されて評判を呼び、やがて人形遣いの座主を「櫓下」と呼ぶようになったそうだ。
高麗橋4丁目の松村診療所で通訳として働きながら、キリスト教伝道の準備をしる金銭トラブルも重なり、外交問題に発展したとの話も残る。
大阪で初の鉄橋となった高麗橋は評判を呼び、見物人が押し寄せた。呼び名も「高麗橋」から「鉄橋」へ変わり、大坂の町は大いにわいたという。欄干には当時の市章があしらわれた。いまの「みおつくし」ではなく、「大」の字をクローバーの葉のように組み合わせた意匠で、現在も街灯の上にレプリカとして見ることができる。高麗橋を訪れたら、ふと見上げてみるのも面白い。

界隈に残る伝承
高麗橋の西詰には高札場があった。道修町から出た火が迫った際、高札も焼け落ちそうになったという。それを見た芸州草津村から出稼ぎに来ていた牡蠣船屋の五郎左衛門が体を張って高札を守り、その功によって大坂市中の橋の下に牡蠣船をつなぎ、商いを営むことを許されたと伝わる。
また、紀州の薩摩上左衛門という操り人形師が高麗橋の櫓下で人形座の興行を許されて評判を呼び、やがて人形遣いの座主を「櫓下」と呼ぶようになったそうだ。
高麗橋4丁目の松村診療所で通訳として働きながら、キリスト教伝道の準備をしていた澤山保羅と信徒らは1877年に浪花公会を設立した。これが浪花教会の始まりとされ、日本で最初の海外からの援助を受けない「自給」教会が誕生した。
地名にもその記憶が残る。寛永11(1634)年、3代将軍家光が大坂城に入った際、大坂町中の地子銀が永代免除されたという。その恩恵に感謝し、町役人の最高責任者である惣年寄らが釣り鐘をつくり、高麗橋のたもとに置いたことが、釣鐘町の起こりと伝わる。安曇江は東横堀川の旧名で、かつて河畔には安曇寺があったといい、今も堀の東西に安堂寺町の名が残る。


