藤原正隆社長が小学生だった昭和30年代後半、日本の家庭には小さな変化が訪れていた。畳敷きだった客間が洋間に変わり、板の間に絨毯がひかれ、ソファーとテーブルが置かれた。壁には本棚が据えられ、そこには世界大百科事典や文学全集がずらりと並ぶ。「うちの本棚にも、全集が飾りとして並んでいました。そこに洋酒と、北海道旅行のお土産の定番だったシャケをくわえた木彫りの熊。これが必ずセット(笑)。昭和の家庭のステータスだったんですよ」
藤原少年は飾りのはずの本棚に手を伸ばし、山本有三全集や武者小路実篤全集など、読書に没頭した。その中に並んだB5サイズの『ことわざ故事金言事典』をぱらぱら捲っていたとき、ひとつの故事に目が留まる。「『臥薪嘗胆』(がしんしょうたん)です。目的を遂げるために我慢をして努力を重ねる。幼いながらに、そうして得られるものがあると感じました」。藤原少年のこの感受性は、のちに大阪ガスを束ねるための哲学にも繋がっていく。
1982年、京都大学工学部を卒業した藤原社長は大阪ガスに入社。営業部に配属されると、それまで描いていた「勝手に売れるもの」というガスのイメージが一変する。「当時は、重油やプロパンガスが優勢で、都市ガスは高価でなかなか売れない。まさにドブ板営業でした」
20代で小さな製造工場を担当したときのこと。藤原さんは、工場の社長に提案を続けて信頼を築き、設備の導入を決めてもらう。しかし稼働日初日、予期せぬトラブルで工場の全ラインが停止してしまう。「試験ではうまくいったのですが、結果的にお客様に多大な迷惑をかけてしまった。『現場に行き、現物に触れて、現実を知る』その重要性を痛感しました」。この原体験は、現在の大阪ガスの共通言語、「三現主義」が生まれるきっかけとなった。
1995年の阪神淡路大震災では、約80万戸強ものガスの供給が停止。30代半ばだった藤原さんは現場に駆けつけ、記録を取り続けた。「記録は、現場の声の聞き取りです。トイレもないような混乱の極みの中ですから、話を聞くのに非常に苦労しました。臥薪嘗胆を胸に、聞き取りを続けました」。現実の厳しさに打ちひしがれながら3カ月かかって全ラインを復旧させたとき、住民から感謝の声が寄せられるようになる。「温かい食べ物が食べられるようになりました」、「お風呂を沸かせられるようにしてくれてありがとう」――「それを聞いたときは、疲れが吹き飛ぶような気持ちになりましたね。ガスといのはただの燃料ではなく、日々の心を温めるエネルギーなんだ、と」。
藤原社長が、若い社員たちに伝えている言葉がある。「我々が売っているのはガスではなく、その先にあるお客様の笑顔。どれだけ技術が進んでも、現場でお客様と向き合い、社会の役に立つことが大阪ガスの原点なんです」。飄然として穏やかな語り口に耳を傾けながら、こんな歌が生まれた。
ガス灯の下にこころを差しだせばちいさくともる臥薪嘗胆
【プロフィル】歌人 高田ほのか 大阪出身、在住 短歌教室ひつじ主宰。関西学院大学文学部卒。未来短歌会所属 テレビ大阪放送審議会委員。「さかい利晶の杜」に与謝野晶子のことを詠んだ短歌パネル展示。小学生のころ少女マンガのモノローグに惹かれ、短歌の創作を開始。短歌の世界をわかりやすく楽しく伝えることをモットーに、短歌教室、講演、執筆活動を行う。著書に『ライナスの毛布』(書肆侃侃房)、『ライナスの毛布』増補新装版(書肆侃侃房)、『100首の短歌で発見!天神橋筋の店 ええとこここやで』、『基礎からわかるはじめての短歌』(メイツ出版) 。連載「ゆらぐあなたと私のための短歌」(大塚製薬「エクエル(EQUELLE)」)