
小川満洋社長は、小学生のころに繰り返して読んでいた漫画がある。「僕は『ドラえもん』がめっちゃ好きで、それ一択!というくらい、『ドラえもん』ばかり読んでいました。小遣いも月に何百円でしたが、もらったら真っ先に新刊の『ドラえもん』を買いに行き、その一冊を繰り返し読んでいました」

ドラえもんがタイムマシンで未来に帰ってしまう回では、一週間泣き続けたという。「大げさではなく、『世界が終わった』というくらい絶望しました。でも結局、ドラえもんはのび太君のもとに帰ってくるんですけどね。そのときも、『めちゃよかった!』ってまた号泣して(笑)」。
大人になった今も、そのときの思いが残っているという。「全部フィクションなんですが、子ども心に、『こんなに感情が動くものがあるってすごいな』と思いました」

小川社長が中学生の頃に両親が離婚。母親と二人で暮らす中、繰り返し言われた言葉がある。「『卑しい人間にだけはなるな』です。母も、祖母から何度も言われていたらしいです。父親がいないからかなり好き勝手やりましたが、人の道から逸れることがなかったのは、この言葉がいつも頭の隅にあったからやと思います」
大学時代、漫画家になる夢を抱いた小川社長は、アルバイトをしながら作品を投稿。卒業後も出版社への持ち込みを続ける。しかし、採用には至らなかった。「自分なりにテーマを探してひたすら描いていたんですが、商業の世界は売れるものを求めるじゃないですか。当時は、ロボットモノやかわいい女の子の漫画が流行っていて、それを模倣するのが一番楽なんでしょうが、若かったこともあり、興味が湧かないものはどうしても描けなかった」

漫画家になる夢を諦めてサラリーマンになった30歳のとき、小川社長に転機が訪れる。「とある会社に営業職で就職したんですが、営業をしてたらお客様と色んな話をするじゃないですか。その中で、20代ずっと漫画家を目指していた話をしたら、『君、おもろいな』って珍しがられて、『会社案内を漫画にしてくれへんか』と頼まれたんです」
完成した漫画を納品すると、「わかりやすくておもしろいな!」と、とても喜んでもらえたという。こうして、小川社長は漫画は雑誌以外にも需要があることに気づく。「『これを商売にしてみよう!』と。営業マンをしたことで、企業の販売促進ニーズを捉えることができたことも大きかったですね」

かくして2002(平成14)年、小川社長は個人事業主として画屋を創業する。「はじめは、どうやってお客さんにこの商売を知ってもらうか、暗中模索の状態でした。ネットが普及していない時代やったんで、人が集まる場所を探して名刺を配りまくりました。ただ、出版社ほど狭き門ではなかった。100社あったら1社は頼んでくれるみたいな世界で」。
そうした地道な努力が実り、次第に注文が入るようになる。「漫画を描いて生きていきたい連中ばっかりなんです。必ず御社のお役に立ちます」と伝えます」。クライアントとユーザーのコミュニケーション上の課題を漫画で解消。伝達力と親しみやすさなど、画屋独自の表現手法が駆使されている。

以前はウェブサイトの理念にかっこよさげなことをいろいろ書いていたが 、全て削除したという。「僕自身、それらが頭に入ってこなく(笑)。やっぱり綺麗ごとはダメだなと。いま掲げる理念はひとつ、『漫画を描いて生きる!』です」
小川社長の漫画に対する情熱は、小学生で出会った『ドラえもん』の時代から、全く色褪せていない。「!」が入った理念は珍しいが、この「!」は、ただの感嘆符ではない。生涯を〝漫画屋〟として生きる決意をした、信念の一字なのだ。
吹き出しは「漫画で生きる!」泣かないでタイムマシンで逢いにいくから

【プロフィル】歌人 高田ほのか 大阪出身、在住 短歌教室ひつじ主宰。関西学院大学文学部卒。未来短歌会所属 テレビ大阪放送審議会委員。「さかい利晶の杜」に与謝野晶子のことを詠んだ短歌パネル展示。小学生のころ少女マンガのモノローグに惹かれ、短歌の創作を開始。短歌の世界をわかりやすく楽しく伝えることをモットーに、短歌教室、講演、執筆活動を行う。著書に『ライナスの毛布』(書肆侃侃房)、『ライナスの毛布』増補新装版(書肆侃侃房)、『100首の短歌で発見!天神橋筋の店 ええとこここやで』、『基礎からわかるはじめての短歌』(メイツ出版) 。連載「ゆらぐあなたと私のための短歌」(大塚製薬「エクエル(EQUELLE)」)