【歴史散歩】なぜ菅原道真公は、北野にまつられたのか? 京都の北西は神々が宿る神聖な地

北野天満宮 国宝・御本殿。本殿と拝殿を「石の間」でつなぐ八棟造は「権現造」とも呼ばれ、その形式は後の日光東照宮にも受け継がれたという。桃山建築を代表する貴重な遺構で、造営当時の規模をそのまま残す神社建築としては唯一とされ、随所に精緻な彫刻が施されている

 京都の北西に位置する北野。実は、北野天満宮が生まれる以前から、神々が集う神聖な土地とされていた。その地に菅原道真公(菅公)がまつられ、やがて天神信仰は全国へ広がった。では、なぜ菅公をまつる場所に北野が選ばれたのか。全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社、北野天満宮の禰宜・東川楠彦さんに話を伺った。(山﨑博)

北野天満宮の禰宜・東川楠彦さん

神々が集う「天門」の地

北野天満宮の境内、楼門から御本殿へ向かう途中にある火之御子社。北野天満宮の創建以前からこの地に鎮座し、雷を司る神「火雷神」をまつる

 鬼門が北東で鬼が集まる方角とされるのに対し、天門は北西、神々が集まる方角とされる。御所から見て、その天門にあたるのが北野の地だ。北野では古くから、五穀豊穣、遣唐使の渡航安全、雨乞い、疫病退散を願う神事やはらいが行われてきた。はらい、清め、災いを鎮める神聖な場所であり、境内には創建以前からあったとされる地主社、雷の神をまつる火之御子社(ひのみこしゃ)がある。

雷神として語られた菅公

 その北野に、のちに菅公がまつられる。菅公は藤原時平の讒言(ざんげん)により大宰府へ流され、無念のうちに亡くなったとされる。その後、都では疫病が流行し、藤原氏に不幸が相次いだ。さらに御所の清涼殿に落雷があり、人々は菅公のたたりだと怖れたという。北野天満宮に伝わる〝北野天神縁起絵巻〟にも、雷神となった菅公が藤原時平に天誅(てんちゅう)を下そうとする場面が描かれている。

なぜ、北西の地だったのか

 前述の通り、北野には菅公以前から、雷の神をまつる火之御子社があった。もともと雷の神をまつり、はらい、清め、災いを鎮める北野の地に、雷神となった菅公がまつられた。
 もし菅公を、ただたたりをもたらす怨霊として鎮めるだけなら、鬼門にあたる場所にまつったはずだ。しかし、実際にまつられたのは天門の地だった。ここに、菅公が特別な存在であったことが分かる。

神となった菅公

 菅公が北野にまつられると、不思議と疫病は収まり、都は平穏を取り戻していったという。そして987年、一條天皇は北野天満宮の「北野祭」を勅祭(ちょくさい)とした。この時、初めて「北野天神」の名が用いられ、菅公は「天神」という神として位置付けられた。朝廷に仕えていた一人の人物を、朝廷が神としてまつったのである。
 その後、勉学に優れ、字が美しく、和歌に秀で、弓も百発百中だったと伝わる菅公の人物像が、次第に広く語られるようになった。こうして、災いを鎮めるための信仰から、その生涯や才能をたたえる天神信仰へと広がっていった。

文化の地となった北野

北野天満宮の「太閤井戸」。豊臣秀吉が北野大茶湯を開いた際、この井戸の水を茶の湯に使ったと伝わる

 菅公は文化芸能の神様としても信仰され、北野は文化の発信地となった。豊臣秀吉がこの地で北野大茶湯を開いたのも、天神様への信仰が厚く、北野が文化や芸能の地だったからだという。「茶碗さえ持ってくれば誰でも参加できる」と呼びかけた北野大茶湯は、今

でいう万博のような場だったといえるだろう。
 かつての北野天満宮は、現在からは想像できないほど広かった。近年まで一の鳥居は現在の北野商店街付近にあったと伝わり、「北野大茶湯図」を見ると、その範囲はさらに南まで広がっていたことが分かる。

庶民に広がった天神信仰

 江戸時代になると、天神様は学問の神様として庶民にも広く親しまれるようになった。寺子屋には天神像が掛けられ、子どもたちは菅公の生涯を学び、学問の心構えを教えられた。やがて「自分たちの町にも天神様を迎えたい」という思いが全国へ広がり、各地に天満宮が建立される。「通りゃんせ」などのわらべ歌にも登場するなど、天神様は大人から子どもまで知る身近な神様となった。こうして北野は天神信仰の中心地として栄え、人々の暮らしに深く根付いていった。

本殿に刻まれたモモとカボチャ

御本殿の蟇股(かえるまた)に刻まれた、カボチャとモモの彫刻

 北野天満宮の国宝・御本殿には、モモやカボチャの彫刻が刻まれている。現在の御本殿は、豊臣秀吉の遺志を継いだ秀頼が1607年に完成させたものだ。豊臣家は天神様への信仰が厚く、カボチャには、関ヶ原の戦い後、厳しい状況にあった豊臣家の安泰や子孫繁栄への願いが込められたという。
 そして実は、御本殿中央の参拝者からは見えない場所に、最も大きな彫刻「三つ桃」があるという。〝古事記〟のイザナギとイザナミの神話にも登場するように、桃は古くから邪気を払うものとされてきた。北野は菅公以前から、はらい、清め、災いを鎮める神聖な場所だった。本殿の中心に刻まれた三つ桃からも、そうした北野の性格が見えてくる。

北野天満宮の境内。奉納された多くの提灯が並び、奥には国宝・御本殿へと続く三光門が見える
境内には、天神さまのお使いとされる牛の像が数多く見られる。菅公が丑年生まれだったことや、大宰府で亡くなった後、御遺骸を運ぶ車を引く牛が途中で座り込んだという伝承に由来する

北野天満宮に伝わる七不思議

 北野天満宮には、古くから「七不思議」と呼ばれる伝承が残る。境内を歩いているだけでは気付かないものも多い。知ってから探すと、参拝が少し違って見えてくる。

影向松(ようごうのまつ)

初雪が降ると、天神さまがこの松に降臨し、雪を眺めながら詩を詠むという。現在も初雪の日には「初雪祭」が行われる

筋違いの御本殿

参道をまっすぐ進んでも、御本殿は正面にない。もともとこの地にあった地主社を避けるように、御本殿が建てられたためだという

星欠けの三光門

「日・月・星」の三光門だが、星の彫刻だけがない。かつて御所から祈ると、門の真上に北極星が輝いていたためと伝わる

大黒天の燈籠

大黒天の口に小石を置き、落ちなければ、その石を財布に入れて祈るとお金に困らないという。「落ちない」ことから受験生にも知られる

唯一の立ち牛

境内の牛は臥牛(伏した牛)の姿で表されているが、拝殿の欄間には一体だけ、なぜか立った姿で刻まれている。その理由は今も謎とされる

裏の社

御本殿の背面にも「御后三柱(こうのみはしら)」と呼ばれる御神座があり、かつては正面とあわせて参拝するのが習わしだったという

天狗山

(北野天満宮提供)境内の北西の角には「天狗山」と呼ばれる小山があり、都の守護を司る乾(北西)に立つ北野天満宮の、さらに乾にあたることから、特に神聖な場所とされてきた
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