
京都の北西に位置する北野。実は、北野天満宮が生まれる以前から、神々が集う神聖な土地とされていた。その地に菅原道真公(菅公)がまつられ、やがて天神信仰は全国へ広がった。では、なぜ菅公をまつる場所に北野が選ばれたのか。全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社、北野天満宮の禰宜・東川楠彦さんに話を伺った。(山﨑博)

神々が集う「天門」の地

鬼門が北東で鬼が集まる方角とされるのに対し、天門は北西、神々が集まる方角とされる。御所から見て、その天門にあたるのが北野の地だ。北野では古くから、五穀豊穣、遣唐使の渡航安全、雨乞い、疫病退散を願う神事やはらいが行われてきた。はらい、清め、災いを鎮める神聖な場所であり、境内には創建以前からあったとされる地主社、雷の神をまつる火之御子社(ひのみこしゃ)がある。
雷神として語られた菅公
その北野に、のちに菅公がまつられる。菅公は藤原時平の讒言(ざんげん)により大宰府へ流され、無念のうちに亡くなったとされる。その後、都では疫病が流行し、藤原氏に不幸が相次いだ。さらに御所の清涼殿に落雷があり、人々は菅公のたたりだと怖れたという。北野天満宮に伝わる〝北野天神縁起絵巻〟にも、雷神となった菅公が藤原時平に天誅(てんちゅう)を下そうとする場面が描かれている。
なぜ、北西の地だったのか
前述の通り、北野には菅公以前から、雷の神をまつる火之御子社があった。もともと雷の神をまつり、はらい、清め、災いを鎮める北野の地に、雷神となった菅公がまつられた。
もし菅公を、ただたたりをもたらす怨霊として鎮めるだけなら、鬼門にあたる場所にまつったはずだ。しかし、実際にまつられたのは天門の地だった。ここに、菅公が特別な存在であったことが分かる。
神となった菅公
菅公が北野にまつられると、不思議と疫病は収まり、都は平穏を取り戻していったという。そして987年、一條天皇は北野天満宮の「北野祭」を勅祭(ちょくさい)とした。この時、初めて「北野天神」の名が用いられ、菅公は「天神」という神として位置付けられた。朝廷に仕えていた一人の人物を、朝廷が神としてまつったのである。
その後、勉学に優れ、字が美しく、和歌に秀で、弓も百発百中だったと伝わる菅公の人物像が、次第に広く語られるようになった。こうして、災いを鎮めるための信仰から、その生涯や才能をたたえる天神信仰へと広がっていった。
文化の地となった北野

菅公は文化芸能の神様としても信仰され、北野は文化の発信地となった。豊臣秀吉がこの地で北野大茶湯を開いたのも、天神様への信仰が厚く、北野が文化や芸能の地だったからだという。「茶碗さえ持ってくれば誰でも参加できる」と呼びかけた北野大茶湯は、今
でいう万博のような場だったといえるだろう。
かつての北野天満宮は、現在からは想像できないほど広かった。近年まで一の鳥居は現在の北野商店街付近にあったと伝わり、「北野大茶湯図」を見ると、その範囲はさらに南まで広がっていたことが分かる。
庶民に広がった天神信仰
江戸時代になると、天神様は学問の神様として庶民にも広く親しまれるようになった。寺子屋には天神像が掛けられ、子どもたちは菅公の生涯を学び、学問の心構えを教えられた。やがて「自分たちの町にも天神様を迎えたい」という思いが全国へ広がり、各地に天満宮が建立される。「通りゃんせ」などのわらべ歌にも登場するなど、天神様は大人から子どもまで知る身近な神様となった。こうして北野は天神信仰の中心地として栄え、人々の暮らしに深く根付いていった。
本殿に刻まれたモモとカボチャ
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北野天満宮の国宝・御本殿には、モモやカボチャの彫刻が刻まれている。現在の御本殿は、豊臣秀吉の遺志を継いだ秀頼が1607年に完成させたものだ。豊臣家は天神様への信仰が厚く、カボチャには、関ヶ原の戦い後、厳しい状況にあった豊臣家の安泰や子孫繁栄への願いが込められたという。
そして実は、御本殿中央の参拝者からは見えない場所に、最も大きな彫刻「三つ桃」があるという。〝古事記〟のイザナギとイザナミの神話にも登場するように、桃は古くから邪気を払うものとされてきた。北野は菅公以前から、はらい、清め、災いを鎮める神聖な場所だった。本殿の中心に刻まれた三つ桃からも、そうした北野の性格が見えてくる。



北野天満宮に伝わる七不思議
北野天満宮には、古くから「七不思議」と呼ばれる伝承が残る。境内を歩いているだけでは気付かないものも多い。知ってから探すと、参拝が少し違って見えてくる。
影向松(ようごうのまつ)

筋違いの御本殿

星欠けの三光門

大黒天の燈籠

唯一の立ち牛

裏の社

天狗山

