江戸時代、京都の島原や江戸の吉原と並ぶ規模を誇った大阪の「新町遊郭」。井原西鶴も絶賛した名妓・夕霧太夫が活躍した天下の花街は今、ビルやタワーマンションが立ち並ぶ。街角にわずかに残る面影をたどった。(山﨑博)

井原西鶴も称えた名妓 夕霧太夫が来た新町 消えた〝天下の花街〟の面影を追う
四ツ橋交差点から少し北に、新町橋跡の石碑が立っている。阪神高速の下には、かつて西横堀川が流れ、新町遊郭へと通じる橋が架かっていた。一般に遊郭と聞けば遊興の場という印象を持つが、新町は少し格が違った。江戸の吉原、京都の島原と並ぶ日本三大遊郭の一つとして知られ、遊興の場と同時に、上級武士や富豪町人が集う社交場、商談の場としての役割も大きかった。このため、太夫や遊女たちには高い教養が求められ、代表的なのが天下に名を知られた夕霧太夫だ。

大坂中が恋した夕霧太夫
江戸時代の作家・井原西鶴は代表作『好色一代男』で、姿や声の美しさ、唄や琴、三味線の腕前、座をまとめる才、手紙の巧みさ、情の深さまで挙げ「日本広しといえども、夕霧(太夫)をおいてほかにない」とたたえた。美貌だけでなく、芸と教養、人を引きつける力を備えた名妓として描いている。
夕霧太夫は本名をお照といい、京都の生まれと伝わる。京・島原の扇屋四郎兵衛のもとで育ち、1672(寛文12)年に扇屋が大坂の新町へ移るのとともにやって来た。この時の夕霧は花盛りの19歳。評判は大坂中に広がり、「夕霧が来る」と聞いた人々が「今日か明日か」と川べりに集まったという。
偶然だが、新町橋が架けられたのも同じ年。まるで夕霧を迎えるような不思議な縁を感じる。夕霧は25歳の若さで病に倒れて世を去ったが、大坂中は涙に暮れたという。

消えた記憶
現在の新町にはタワーマンションが建ち、オフィスや工場、飲食店が並び、ここに遊郭があったことを思わせる風景は残っていない。唯一、名残を感じさせるのは路地裏に残る「石畳」だ。地元住民によると「吉田屋を取り壊した際に移したものだと伝え聞いている」という。
吉田屋といえば、夕霧太夫が客をもてなした揚屋(あげや)のことだ。遊郭では、遊女を抱える店を置屋と呼び、置屋から遊女を呼んで客をもてなす場所を揚屋といった。格式ある揚屋は大茶屋とも呼ばれた。
オリックス劇場前の新町北公園には「新町九軒桜堤跡」の碑が立つ。この界隈は桜の名所で、特に九軒町の土手に続く桜並木は有名だった。付近には吉田屋をはじめ大茶屋が並んでいたが、戦災で失われた。その後の復興都市計画で「なにわ筋」が整備されるなどしたため、区画は大きく変わり少し分かりづらいが、吉田屋があった場所は、なにわ筋付近から現在のモンベル本社がある辺りだといわれている。


秀吉が始まりか
遊郭ができた正確な時期は定かではないが、豊臣秀吉が大坂城を築き、天下人となった頃、秀吉が大坂町中の色里を認めたことが始まりだという説がある。徳川の時代には風紀の乱れを防ぐため、市中に散らばっていた遊所を一カ所にまとめた。こうして新しく開かれた町から「新町」と呼ばれるようになった。これが江戸幕府が公認する大坂唯一の遊郭「新町」の始まりとされ、城下の西に位置したことから「ニシ」や「西廓」とも呼ばれた。
遊郭の「廓」は、もともと城や砦の囲いにも通じる言葉だ。新町も外部と区切られ、門口には番所が置かれていた。遊女が自由に出入りできない閉ざされた場所だった一方、口論や狼藉者、駆け落ちなどを防ぐための管理でもあった。普段は閉ざされ、火災などの時にだけ開いた門は「はまぐり御門」と呼ばれたそうだ。なんとも皮肉な呼び名だ。
格式の裏にあった庶民の遊興
新町遊郭は、次第に上級武士や富豪町人が集う社交場、商談場として発展した。最高位の太夫は唄や琴、茶の湯など高い教養を身につけた特別な存在で、とても庶民の手には届かなかった。
一方で、庶民の遊興には別の姿もあり、吉原町の辺りは「裏新町」とも呼ばれていたらしく、格子越しに客を迎える遊女や端女郎もいた。廓を見物して歩く「ひやかし」など、金を使わず華やかな空気を味わう人々も多かったようだ。

別名「ひょうたん橋」
遊郭へ向かう「新町橋」は瓢箪町筋にあったことから、別名「ひょうたん橋」とも呼ばれた。新町づくりに関わった木村又次郎は、木村重成の乳母の子で、重成から拝領した瓢箪の馬印を玄関に飾っていたのが町名の由来になったとか。また、木村又次郎は加藤清正の家来だった木村又蔵の孫ともいわれている。
橋傾くほどにぎわう
新町橋は橋上の夜店が浪花名物となり、にぎわいは東の順慶町まで及んだ。戦前まで1と6の付く日の夜店として続き、心斎橋繁栄の遠因ともいわれる。あまりの人出に「橋が傾く」と、店は北側と南側に交互に並べられた。1872(明治5)年、木橋から橋脚のない全長20㍍余りのアーチ式鉄橋に架け替えられた。その後、鉄筋コンクリートの橋となった。橋の西詰近くには、夜から翌日の昼まで営業し、朝帰りの客に豆腐汁を出していた「夜あけ」という店が評判だったそうだ。

消えた花街、そして今
江戸から明治、大正、昭和へと時代は流れ、新町も姿を変えながら華やかさを保った。しかし、戦局が悪化すると酒や食料が不足し、男は兵隊に取られ、夜間営業も難しくなった。町は急速に寂れ、大阪大空襲で灰燼に帰した。昭和46年ごろには西横堀川が埋め立てられ、橋は姿を消す。
取材では、昭和60年ごろまでは料亭が残り、三味線の音が聞こえるなど、かつての面影がまだあったという話も聞いた。しかし今、その気配を感じることも難しい。新町は、現代で例えるなら銀座や祇園、北新地が持つ社交性を併せ持ちながら、幕府公認の高級花街としての格式を備えた場所だった。接待や商談、人脈づくりが行われ、料亭文化や大阪の食のもてなしにつながるような、町の礎がここにあったのかもしれない。

