【歴史散歩】白髪橋・あみだ池が刻む土佐の足跡 土佐藩邸から三菱、そして司馬遼太郎へ

 かつて八百八橋と呼ばれた大阪には、橋の名が地名や駅名として数多く残っている。中でも白髪橋は、少し気になる名前だ。なぜ白髪なのか。仙人でもいたのかと想像したくなるが、この一帯を歩くと、高知県との深い縁が見えてくる。かつて大阪屈指の名所としてにぎわったあみだ池の歴史とともに、たどってみたい。(山﨑博)

白髪橋の由来

 白髪橋という名は、高知県の白髪山から切り出された材木に由来するという。白髪山は天然ヒノキの美林で、山の名は白く光る岩から名付けられたともされる。現在は、白く枯れた木々が立ち並ぶ白骨林の景観でも知られている。
 大坂夏の陣後、城と町の再建で大量の材木が必要になると、元和末年(1622年)ごろ、土佐藩の申請で材木市は立売堀川に始まった。やがて白髪町に土佐藩の屋敷が置かれると、西長堀川でも材木市が開かれ、川沿いには材木商が軒を並べた。今の白髪橋交差点に立つ「大阪木材市売市場発祥の地」の碑は、その歴史を伝えている。また、近くにあった鰹座橋は、土佐の名産鰹節を取引する鰹座があったことにちなむ。

司馬遼太郎『竜馬がゆく』の構想もここで?

 かつて土佐藩邸があった場所に、現在の土佐稲荷神社がある。神社のある場所は当初、藩邸の庭にあたり、屋敷はその東側に広がっていた。明治になると、三菱の創業者・岩崎彌太郎がこの地に居を構えた。境内の岩崎家旧邸址の碑は、再開発に伴い東側から移されたものだ。その屋敷跡には今マンションが建っている。 中でも西長堀アパートは、タワーマンションにつながる都市型高層住宅の先駆けとされる。作家の司馬遼太郎が住み、ここで『竜馬がゆく』の構想を練ったともいわれる。

土佐稲荷神社の奥に、司馬遼太郎が住んだ西長堀アパート
神紋に三菱を象徴するスリーダイヤのマークがある

消えた狛犬

 土佐稲荷神社の本殿前にある青銅の狛犬は岩崎彌太郎の弟で、三菱2代目社長となった岩崎彌之助が寄贈したもので、中国から持ち帰ったものとみられている。
 もともとは、日本の狛犬に多い阿吽(あうん)ではなく、左右とも口を開けた阿阿(ああ)の姿だったという。ところが、本殿に向かって右側の狛犬が盗まれ、片方を新たに作り直すと、手違いから日本の狛犬の定番〝阿吽〟の形に仕上がり、正面から右側が口を閉じた吽(うん)、左側が口を開けた阿(あ)と、本来とは逆の配置になってしまったという。ただ、胴体と首を差し替えられる構造だったため、現在は向かって右が阿、左が吽に整えられた。つまり、右側は顔、左側は胴体が当時のものだという。同じく阿阿の形をした狛犬は東京の渋沢栄一邸にもあったとの話もあり、その関係も気になるところだ。

正面向かって左側の狛犬
正面向かって右側の狛犬
狛犬、よく見れば、入れ替えた時の穴の跡がある

岩がゴロゴロ大坂名物〝岩おこし〟

 土佐藩の蔵屋敷があった時代、白髪橋周辺には、年貢米を運んできた千石船が近くに停泊していたそうだ。あみだ池大黒の会長、小林隆太郎さんによると、初代は行き交う千石船の船底に残る余剰米に目を付け、当時としては贅沢だった米を〝おこし〟の原料にした。これが商都・大坂を象徴する縁起の良い土産物として評判を呼んだという。
 その中でも〝岩おこし〟の由来は面白い。江戸時代中期の大坂では、水路工事で岩がゴロゴロと掘り出されており、その様子をシャレにして「大坂名物掘り起こし、岩おこし」と名付けたという。こうして誕生した生姜入りの堅いおこしは大ヒットし、今も大阪を代表するお菓子の一つになっている。

あみだ池大黒の「岩おこし」は大阪を
代表するお菓子の一つ

信州・善光寺は大坂から

 一般に〝あみだ池〟として知られる和光寺には興味深い縁起が伝わっている。仏教伝来のころ、仏教を受け入れようとする蘇我氏と、古来の神を重んじる物部氏は激しく対立していた。やがて物部氏は蘇我氏の仏像を奪い、難波の堀江に投げ捨てたとされる。その名残が境内に残る阿弥陀池だという。
 後に信濃から来た本多善光という人物が偶然通りかかると、どこからともなく「善光よ、善光よ」と呼ぶ声がした。声のする方を見ると金色の光が放たれており、拾い上げると阿弥陀仏で大切に持ち帰った。それが信州・善光寺の始まりという。

あみだ池(浪花百景)=大阪市立図書館デジタルアーカイブ
幹線道路「あみだ池筋」の由来にもなった和光寺の阿弥陀池

茶屋と遊所

 そんなあみだ池の近くには、堀江の遊所もあった。新町のような官許遊郭ではなく、表向きに認められたのは、抹茶をたてる女性のいる茶屋だった。表向きは茶で客をもてなし、裏では酒食をふるまい客を呼んだという。客のつかない女性に抹茶を挽かせたことから、あぶれることを「お茶を挽く」と呼ぶようになったとの説もある。
 また、一説によると、新町廓の客が太夫を連れて阿弥陀池へ散策することが流行し、池のほとりに鳥にちなんだ五軒の茶屋が建ったともいう。鷺屋、小鳥屋、鳩屋、燕屋、鴉屋。これが堀江の茶屋の始まりともいわれる。

戦前の西長堀川

 今の長堀通からは想像しにくいが、四ツ橋から西へ、白髪橋方面にかけて、かつて西長堀川が流れていた。川沿いには材木問屋の浜が続き、水面には材木が浮かび、あたりには木の香りが漂っていたそうだ。
 戦前の堀江には、「知ったお方は白髪橋、知らんお方は問屋橋、とんだお方は富田橋、今日は稲荷か、阿弥陀池」という手まり唄があった。子どもたちの遊び場は、土佐稲荷や阿弥陀池が中心だったようだ。川は、川底の砂に貝殻が見えるほど澄み、魚もたくさん捕れたという。春は土佐稲荷の桜見やあみだ池の植木市、夏は「かんてき割った、すり鉢割った」と歌い踊る盆踊りでにぎわった。
 しかし、戦災で堀江の町は大きな被害を受け、焼け跡のがれきは川へ投げ込まれた。川は次第に汚れ、舟運も衰えていく。やがて西長堀川は埋め立てられ、姿を消した。

西長堀川にかかる白髪橋(1937年)=大阪市立図書館デジタルアーカイブ

あみだ池大黒に3500体の大黒様

 あみだ池大黒には、屋号にちなみ、約3500体もの大黒様が本店の土蔵に祀られている。戦災で周囲が焼け野原になる中、この蔵だけは残ったという。なお、一般公開はされていない。

大黒蔵ギャラリー

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