斎藤氏返り咲きの兵庫県知事選 巨悪集団VS孤独な正義の構図は本当か?

 兵庫県知事選の斎藤元彦・前知事(47)の返り咲きが、「既得権益の温存を図る新聞テレビなどの〝旧メディア〟に、現状打破を目指す改革派の〝SNS〟が勝った」と話題になっている。民主主義の根幹である「表現の自由が保証された選挙」のあり方が、ネット時代の到来で大きく揺れているのだという。
 「為政者やマスコミが既得権益者として巨悪集団を形成しており、それを改革する孤独な正義者について報じないマスコミの裏が、SNSで露呈した」という構図は本当だろか? 〝斎藤現象〟を客観的に解説してみたい。

神戸市内で選挙活動をする斎藤元彦氏=2024年11月16日(アフロ)
神戸市内で選挙活動をする斎藤元彦氏=2024年11月16日(アフロ)

協調性薄れ、深まる分断
旧メディア「中立的選挙報道」は限界!?

 私自身は〝全国紙〟と呼ばれた毎日新聞の出身で、まぎれもなく旧メディアの人間だ。入社試験では、記者職とそれ以外の一般職に分けられており、それだけ記者職は適性や能力の必要な職種として扱われていた。
 当時を振り返ると、まず入社前の記者研修で「毎日憲章」について教えられた。最初に『言論の自由と独立の確保』が唱われ、「真実敏速な報道」「公正世論の喚起」をたたき込まれる。これは、どちらにも偏らず客観報道に徹するという日本の新聞界が戦後一貫して掲げてきた「不偏不党」という基本理念だ。
 私はこの記事も含め、これまで多くの記事を書いたり講演を行ったりしてきたが、常に自分の考えを排し、相手には客観的事実だけを示して、「さあ、あなたはどう考えて行動しますか?」の問題提起スタイルを貫いてきた。政界・財界・官僚の権力側の執行機関とは常に一線を画し、読者の付託に応えるために権力側を監視するウオッチャーとして報道してきた。
 新聞・テレビではニュースや記事が世に出るまでに何重ものチェック体制がある。まず記者が素材を集めて記事を書く。それをデスクが見て「ニュースとして価するか否か?」を吟味する。次にレイアウト部門でニュースとしての優先順位が決まる。最後に校正部門で間違いや錯誤の有無を調べる。こうして、ようやく記事やニュースは読者や視聴者の目に触れる。

「自由自治」なSNS空間

 一方のSNSはどうだろうか。全ての人が情報発信者となり、〝タダ〟で自由な活動ができる。個人情報保護への配慮も、裏取りを含めた情報精度の吟味も、意見が分かれる事柄は偏らないように両論併記するなどのバランスも必要とされない。
 旧メディアが新聞社・放送局発の一方通行なのに対し、SNSは全て双方向で発信者と受信者の区別無く情報をやり取りできる。より迅速で的確にはなったが、〝情報の信頼性〟については全て見る者の自己判断となる。
 〝リ・ポスト(Xでの引用拡散)〟と呼ばれる情報転送や、切り取り再発信が容易で、受信者が「面白い」と思った情報はファクト(真実)かフェイク(偽物)かを問わず拡散され、ネズミ算式に広まっていくのもSNSの特徴だ。
 旧メディアのニュースをネット上で再発信する〝切り取り屋〟と呼ばれる業者や個人も多数存在する。彼らは今騒がれているネタや「面白い」と思ったネタを切り取り、再発信することで視聴数を稼ぎ、収入を得ている。
 ネットに詳しいプランナーから「畑山さんもYouTubeやnoteなどのネット媒体で発信して、もっと目立った方がいい」とアドバイスされるが、新聞社スタイルに慣れた私にはノーチェックで発信し、いつの間にか拡散されるSNS社会に自分の主義主張をさらす気にはなれない。

緊急停止した旧メディア

 こうした状況を踏まえた上で、話題となっている選挙報道の裏表を検証してみよう。 旧メディアは斎藤知事のパワハラや公益通報処理を巡る一連の疑惑報道を、出直し県知事選を機にピタリと止めた。これは、テレビは放送法4条「公平性」に基づき、選挙で特定候補者への肩入れや批判ができないからだ。新聞もほぼこれに準ずる。
 このため、皆が気になっているニュースを突然伝えなくなる〝情報の空白〟を、旧メディアは読者・視聴者と関係ないところで勝手に作り出してしまった。その渦中で閑散とした駅頭で人々に黙々と頭を下げる斎藤氏の姿がネットに流れる。「既存メディアが突然パワハラ疑惑を報じなくなり、斎藤さんは独りで巨大な陰謀に立ち向かって頑張っている」という構図が次第に出来上がった。
 旧メディアは折からの衆院総選挙と自公政権の敗北、米国大統領選の行方とトランプ再登板ばかりを報じ、まるで兵庫県知事選を忘れ去ったかのようだった。人々は当然のように〝情報の空白〟を埋めようと、ネットで知事選動向を盛んに検索するようなる。

N党立花がけん引役

 ここで大きな役割を果たしたのがNHK党・立花孝志党首の情報発信力と、〝フィルターバブル〟と呼ばれるネット独特の現象だ。
 立花党首は国会議員2人を擁するれっきとした公党の代表。その人が立候補している自身より「斎藤氏に投票を」と呼びかけ、斎藤氏のパワハラなどを調査していた兵庫県議会百条委員会を痛烈に批判。前知事を擁護する論陣を張り、演説や主張をネットに次々と上げた。人々が立花党首の動画を見れば見るほど、ネット上に同系統の動画がどんどんお勧めされる〝フィルターバブル〟現象が起こる。人々が見続けるからさらに〝切り抜き屋〟は編集動画を再構成、再発信してもっと再生回数を増やそうとする。
 そうなると〝エコーチェンバー〟という状況が起こる。自分と似たような主義主張をネット上で見続けることで、自身の考えと行為を疑わず「正当化」してしまうことだ。
 これに最も適している状況は「陰謀を用いて既得権を守ろうとする巨悪集団 VS 改革を推し進める孤独な正義の人」という単純で分かりやすい選挙などの構図だ。
 さらに古めかしくてうさんくさく感じる旧メディアを『敵』として巨悪におっかぶせ、自分たちが普段から慣れ親しんでいるスマホやタブレットで得た新SNS情報を『正義の味方』としたら一連の物語が出来上がる。
 「巨悪集団 VS 孤独な正義」の戦いの構図は今に始まったではなく、小泉純一郎総理の〝郵政民営化〟、橋下徹氏の〝大阪都構想〟もそうだった。そして米国で吹き荒れるトランプ旋風にはじまり、今夏の東京都知事選の石丸(伸二・前安芸高田市長)旋風、衆院総選挙での玉木雄一郎代表による国民民主党ブーム、名古屋市長選で河村たけし前市長の後継者、広沢一郎候補の当選も全て大なり小なり同一根として映る。
 私は大学で講師もしているが、授業で選挙自体に関心の薄い20歳前後の学生に「なぜ投票に行かないの?」と問うと、ほぼ例外なく「誰に入れても、世の中変わる訳じゃない」という無関心な答えが返ってくる。
 さまざまな選挙で投票率は約半数の50%前後を行き来し、投票行動を取りたがらない若者世代は通常動かない。しかし、今回の兵庫県知事選や名古屋市長選を見ているとネット情報に突き動かされた〝普段は選挙に行かない層〟が自発的に投票し、明らかに選挙結果へ影響を与えている。
 立花党首が新たな支持層として狙うのもそこだろうし、来夏の参院選に向け国政政党として有権者の関心をつなぎ止めるには「反斎藤の兵庫県内市長への刺客となる」ことを続けるしかない。立党の〝NHK受信料支払い拒否〟がそろそろ忘れられかけてきただけに、勝手連的に斎藤県政をサイドから応援する事は広くネット利用有権者のハートをつかみ続けることになるからだ。

やはり旧メディアは必要?

 新聞はページ数、テレビは1日24時間と、媒体の容量に限界があるから、同じ土俵ではネットに到底勝てない。ネット社会には量的限界が存在せず、見る側は巨大な空間から自由に自分の好きな内容を選べる。人々が見たり聞いたりする内容は旧メディアが「コレをこれだけ見なさい」と一方的に提供するスタイルから、新ネットの「自由に好きな部分だけ見聞きする」便利さに移行していくのは当然のことだ。
 本当に大切なのは、学校でのリテラシー教育だ (さまざまな情報を理解して分析、活用する能力)。しかし、これは社会に出ると再教育する仕組みがない。継続的に必要なのは新旧関係なく信頼できる公平中立で見る者の指針となりうるメディア媒体ということになる。
 新聞・テレビ各社は現在生き残りを賭けて試行錯誤しており、最近では報道部門で取材能力の衰退とチェック機能の劣化が激しく、中身のない通信社系報道の二次使用と〝こたつ記事〟と称される本人のSNS発信を引用した孫引き記事が増え続け、ニュース枠を埋めるのが精一杯。往年の見る影もない。
 さまざまな情報に対し旧メディアではファクトチェック(事実確認)という作業が役割として欠かせないが、日本は欧米に比べて遅れていて、ネット記事とはすれ違いばかりでまるでチェック機能を果たせていない。そこである程度の業界淘汰を見定めた上で、生き残った旧メディアを良心的指針として存続させる試みも起こるだろう。
 ネットによる情報発信がいかに普及しても、ネット上での当事者による一方通行の情報発信と謝罪釈明などで、コトを収めることを常態化してはならない。政治家だけでなく組織トップあるいは公人の「説明責任」とは、自らの言葉で新旧を問わないメディアからの質問に丁寧に答えることだ。これは簡単に見えても難しく、普段は攻める側に立つことが多い立花党首もネット媒体記者に逆に責められ、声を荒らげる場面がネット上であった。
 私が思い出すのは2019年7月の吉本興業・岡本昭彦社長による「宮迫闇営業」に関する記者会見だ。5時間半、独りで並み居る新旧メディアとの質疑応答を終始落ち着いた口調で展開。最後は「もう質問はないですか?」と確認して悠然と席を立った。その様子は当時のネット媒体で全部生中継されたが、新時代の組織トップのあるべき姿に見えた。