【外から見た日本】911 あの日、私はマンハッタンにいた。

Spyce Media LLC 代表 岡野 健将

Spyce Media LLC 代表 岡野健将氏

 先日、911のテロの記憶を伝えてきた9・11トリビュート博物館が閉館したニュースをみた。あれから21年。911を知らない若者も増えているが忘れていい出来事ではないと強く言いたい。

 2001年9月11日の朝、私はいつもの様にクイーンズの自宅を出て地下鉄に乗り、マンハッタンのオフィスに向かった。途中、電車内が少し騒がしくなり、誰かが「貿易センタービルに小型飛行機が突っ込んだ」と話した。地下鉄は高架線路を走っているので窓から多くの人がその方向をみていた。私にも遠くで黒煙が揺れるのがみえた。

 オフィスのあるビルへいくと、警備員の事務所前のテレビには人だかりが。「飛行機が突っ込んだ事故だろ?」と聞くと、「いや、テロだ。ジャンボジェットがビルに突っ込んで爆発したんだ」。このとき2機目が突っ込んだ後だった。

 私のオフィスは貿易センタービルから5㌔ほど離れていた。オフィスのテレビでニュースを見ながら仕事を始
めると、信じられない光景が飛び込んできた。ビルが崩壊したのだ。あっという間に建物は姿を消し、物凄い量の埃や粉塵が舞い上がり、それが黒煙とともに空一面に広がった。

 日本でニュースを見ていた人は「マンハッタンが、ニューヨークが大変な事になっている」と思ったはずだ。確かに貿易センタービルのあったダウンタウン一帯は壊滅的なダメージを受け、多くの犠牲者を出していた。

 しかし、それ以外の地域はいつもは騒がしいニューヨークの街中が異様なほどの静けさに包まれていた。パトカーのサイレンも、街中に流れる音楽も、人々の会話も、すべてが消え去っていた。窓から通りを見下ろすと多くの人が通りにしゃがみ込み、車のラジオから聞こえるニュースに耳を傾けていた。多くは会社にテレビがなく、何がどうなっているのか映像で確かめることが出来なかったのだ。日本で皆さんが見た映像は、マンハッタンにいた多くの人は視聴不可能だった。

 ビル崩壊でわき上がった埃や粉塵は南西方向、つまり海の方へ風に流され、マンハッタン上空には真っ青な空が広がっていた。だからミッドタウン以北にいた人はテレビがないと何がどうなっているのか全くわからない状態だった。

 今のようにネットやスマホは存在せず、映像を見るにはテレビが必要だった。その上、貿易センタービル屋上にはテレビの電波を中継するアンテナが建っていたから、崩壊でアンテナを失った後は地上波放送を視聴できなくなり、ケーブル放送を契約していないとテレビが見られないという状態になった。

 多くの人は午後になって自宅へ向けて動き出した。地下鉄もバスも止まり、車もマンハッタンへの乗り入れが禁止されていたから歩いて帰宅の途に就いた。家族の待つ自宅へ炎天下を何時間も歩いたのだ。その間、ニューヨーク中の警察や消防、救急隊員が現場に急行し、決死の救助活動を行っていた。

 テレビから流れる映像と、私のオフィス周辺の風景のアンバランスさに何とも言えない不思議な気持ちになった。一体どれが本物の世界なのか?

 燃料を満載したジャンボジェットをハイジャックしてビルに意図的に激突させる。そのために飛行機の操縦まで学んでいた。ここまでしてテロを起こす理由は何なのか? 人種差別、経済格差、宗教観の違い? 何が理由でも絶対に許される行為ではなく、二度とあってはならない出来事だ。

 いつも独身を楽しみ、自分中心のニューヨーカー達が911以降は、いやに他人をケアするようになった。1946年から48年頃がそうだったように2002年と03年はベビーブームが巻き起こった。

 米国にとっては、建国以来初めて本土で敵の攻撃を受けるショッキングな出来事でもあった。

 911テロは米国で起きたテロとして皆さんは認識していると思うが、あのテロで24名の日本人が命を落としている。この人数は、日本の歴史上一度のテロで失われた生命の数では最大だった。だから日本もこれは外国の出来事と片付けていいものではなく、自分ごとに捉えるべきものだと強く言いたい。対テロの戦いは日本人も当事者意識を持つべき事案なのだ。今も多くの人があのテロの後遺症で苦しんでいる。決して忘れていい出来事ではない。

【プロフィル】 State University of New York @Binghamton卒業。経営学専攻。ニューヨーク市でメディア業界に就職。その後現地にて起業。「世界まるみえ」や「情熱大陸」、「ブロードキャスター」、「全米オープンテニス中継」などの番組製作に携わる。帰国後、Discovery ChannelやCNA等のアジアの放送局と番組製作。経産省や大阪市等でセミナー講師を担当。文化庁や観光庁のクールジャパン系プロジェクトでもプロデューサーとして活動。