所属タレントへの性加害に揺れる芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」と自動車保険不正請求が発覚した中古車販売・点検修理の「ビッグモーター」。共に家族で経営権と株式を独占し、業界をリードしてきた巨大企業だが、コンプライアンス(企業倫理)を無視した犯罪行為をなぜ、誰も止められなかったのか?新聞・放送メディアに対しても、世間からは「CMや番組で散々世話になっていたから、報道を忖度(そんたく)し控えたのでは?」と厳しい目が向けられている。
忖度と前例踏襲が利権温存
不祥事続く「同族企業」とチェック機関の「メディア」はどこへ?
カリスマに引き際なし
日本の法人企業の約9割は同族・家族経営。競争に勝ち抜いた創業経営者が中心に座り、意思決定は極めて早い。半面、権力が1人に集中し、コーポレート・ガバナンス(企業運営に対するチェック体制)が不十分になりがちだ。これを「カリスマ支配」という。
カリスマは往々にして亡くなるまで実質引退しないから、没後に引き継いだ二世は前例踏襲の「伝統支配」で経営を続けようと考える。しかしカリスマ性が無いまま「伝統支配」を選択しても周囲は追随せず、先代末期のひずみが一気に吹き出してくるケースが多い。仮に何とか二世が乗り切ったとしても、孫の三世に移るともっとダメになる。二世は創業者の親の背中を見て育つからまだ自身の度量を理解しているが、三世は生まれながらにチヤホヤされて育った〝ただのお坊ちゃま〟だからだ。
カリスマ経営者にありがちなのは、社員を「自身より劣る」と決め付け、「自分の指示に従っていれば食うに困らない」と見下す。優秀な社員は将来を見越して自然に去って行く。結果「社員は奴隷」のブラック組織形態に陥り、社内は忖度・保身・個人崇拝の末に〝虎の威を借りたキツネ〟のイエスマンが側近としてはびこる。ワンマン経営にはトップのパワハラ命令と、NOが言えず違法も顧みない視野の狭い部下たちによる不正行為が付きものだ。
これらを過ぎれば企業は最終的に、個人に頼らない組織のシステムで動く「合法的支配」に移行しようとする。日本で最も整っている組織は中央官庁の官僚たち。彼らは上から下まで定期的に異動して同じ職責に長く留まらず、漏れなく順に去って行くが組織は決して目詰まりを起こさない。
企業経営論に戻ろう。世界の「トヨタ自動車」も豊田家、「パナソニック」は松下家と、創業家との結び付きは依然強い。カリスマ創業者の「教え」も書物などで数多く残っている。両社を筆頭に、創業家を精神的支柱としながらシステム管理する「合法経営」への切り替えに成功した同族企業だけが息長く存続している。
カリスマ創業者が親族以外へ経営を引き継ごうとした時も一苦労している。ユニクロは柳井正会長兼社長(74)が、塚越大介氏(44)に社長職譲渡を宣言した。2002年に一度は玉塚元一氏(61、元ローソン社長、現ロッテ社長)に社長職を譲りながら3年で頓挫した過去がある。ソフトバンクは孫正義会長兼社長(66)の下、3人の副社長が全て退任し後継者が決まっていない。ニデック(旧日本電産)は永守重信会長(78)が10年間、後継者を取っ替え引っ替えしたが、誰もお眼鏡にかなわなかった。
実権は誰の手に?
ジャニーズ事務所もビッグモーターも、創業家一族は経営から退場したものの、依然として未上場株の大部分を保持している。両社ともに「早く嵐が過ぎて、元のさやに」という思惑が透けて見える。いわゆる〝首のすげ替え〟で、利益は創業家が握り続けるようでは社会的に信用されず、バッシングも止まらない。
トップの危機管理の甘さは、日本大学における田中英寿理事長(76)解任騒動にも垣間見える。組織に長く君臨した同氏は脱税で逮捕され退任、今春刑事裁判での有罪が確定した今も、一度として釈明会見を開いていない。大学当局の内向きで甘い管理体質は、今夏のアメフト部大麻騒動にも現れており、これでは理事長職にクリーンな作家の林真理子氏(69)が就任しても「何も変わっていない」と言われるのは当然だ。
こうした状況は、カリスマの利権に群がる人々や組織が、変化を嫌がるからだ。「日本人は〝長いものには巻かれろ〟体質が強い」と外国からしばしば指摘される。既得権を盾に既存体制を温存したい人が山ほどいるから手離したくない。だからこそ不祥事の組織管理体制立て直しは極めて難しい。
そんな企業の社員にとって、ワンマン経営者の指示命令が突然降りてきて「受けるか、否か?」の判断基準は、「法に触れるか?」が一番分かりやすい。北朝鮮や中国などの専制国で国家に逆らうと「反逆罪」で生命の危険すらあるが、日本の企業社員はさっさと辞めたら済む。理不尽な物からは逃げるのが一番で、決して恥ではない。
新聞・テレビのお家事情
既存メディアは、企業などの横暴・違法をチェックする一定の役割があるはず。「ジャニーズ事務所」問題に長年に渡って無力だったのはなぜだろう?
私が長年務めた日刊の大手全国紙は、政治なら政治部、企業は経済部、エンタメは学芸・文化部、スポーツは運動部が所管していて、警察や検察が介入した途端に〝事件〟として社会部の担当に移る。つまり、日本の日刊紙は縦割り組織で「ジャニー喜多川の性加害」は、通常ルートでは学芸部しか情報を入手できない。今に至るまで〝事件〟として司法が動いていないから社会部の正式な担当にはならない事案だが、英BBCのドキュメンタリー番組放送をきっかけに、何もしないできない学芸部から社会部系が引き取って取材執筆している状態のはずだ。
性加害のうわさは以前から耳にはしていたが、日本における法律の立て付けは、長く〝被害者は女性、加害者は男性〟という前提に立っており、強制性交罪も同様だった。記者だけでなく司法当局も、子どもを含めた男性への性被害事件に積極的に取り組むようになったのはごく最近の事だ。
元フォーリーブス北公次(2012年、63歳で死去)が著書や34年前の告白ビデオで被害を訴えた時に、テレビのワイドショーは全社が黙殺した。追求しようとした突撃レポーター梨元勝(10年、65歳で死去)は実質的に番組から降ろされ閉め出された。裏には「ジャニーズ事務所」側からテレビ局トップに対し、命令調の強い要望の申し入れがあったとされる。
民放テレビはニュースやワイドショーで報道する組織と、ドラマやバラエティーを番組制作する部署、スポンサーからの企業・商品広告窓口のほぼ3部門で成り立っている。「ジャニーズ」タレントは番組出演者として欠かせず、CMに起用しているスポンサーも多い。いくらニュース部門が「報道したい」とアピールしても、収益に響くから他部門のOKがまず出ない。受信料で成り立っているNHKテレビに広告部門は無いが、番組制作で「ジャニーズ」タレントが欠かせないのは民放と同様だ。
今ならテレビや新聞に頼らなくてもネットによるユーチューブ発信という手があるが、20世紀当時は他に公に情報発信する手段の選択肢がなかったのだ。
牙抜かれた既存メディア
日本のメディアは今回の「ジャニーズ問題」で変われるのだろうか? 私は極めて懐疑的な見方しかできない。
歴史的に太平洋戦争後、20世紀後半の日本言論陣は左傾化を強め「反権力の無冠の帝王」として活動するジャーナリストが多く登場した。梨元のように報道のためには情け容赦せず「視聴者の知りたい事に、容赦なく切り込む」強引な手法も、社会的にも〝マスコミの権利〟として甘受されていた。
1971年、沖縄返還を巡る外務省密約報道で、時の毎日新聞記者が「電報入手に同省職員をそそのかした」として国家公務員法違反で逮捕され有罪が確定。次第に「メディア取材も法令遵守すべき」という流れが主流になり、以降自民党政権と官僚側は「特定秘密保護法」や「個人情報保護法」、「共謀罪」などを矢継ぎ早に定めた。メディアが半ば強引に取材対象にとって不都合な情報をむしり取る権利をどんどん制限され自由規制を始めた。
現在のメディアは「取材する自由」は保証されていても、官庁をはじめ企業・団体や1個人にとって「取材させない権利、取材されない自由」が優先され、おいそれとネタを取れなくなった。
記者会見や個別会見では「この件は聞かないで」と主催者側から求められることも多々あり、承諾しないと個人資格でも会見に参加させてもらえない。全ての分野で、発表権者側の宣伝PRの片棒だけを担ぐだけのニュース垂れ流しが日常的になった。
取材対象者が強い市場支配力を持ち、特定メディアが会見などに「出入り禁止」と成る制裁も日常茶飯事。少し前なら、当該メディアが所属する記者クラブで全加盟社が協議。「出入り禁止」が理不尽な理由なら、加盟全社が取材拒否で取材対象者に対抗するケースも珍しくなかった。しかし、今では加盟社の足並みは全くそろわず、そうしたトラブルを機に取材対象者にすり寄る記者も。そうすれば当然のようにおこぼれ情報に預かり、裏でさまざまな便宜も図ってもらえるから、記者も悪い気はしない。「ジャニーズ」問題でも、そうした腐敗した癒着の構図を同業者として疑わなければならないのは情けない限り。
個人が自由に情報発信できるネット社会全盛の中で、既存メディアはこれからも必要なのだろうか? 「大きくて力のある組織vs小さく無力な個人」の構図で〝個人の側に立てるのか、否か〟がメディアに関わる全ての人間に厳しく問われている。