【記事要約文】豊臣期大坂城の失われた遺構が、地下の石垣や竹生島の唐門として現代に甦る。オーストリアの屏風が導いた歴史調査と、極楽橋の謎に迫る現地ルポ。

かつて豊臣秀吉が築いた大阪城。しかし今の天守は近代の再建で、石垣や堀は徳川時代のもの。豊臣期の遺構は地上から姿を消した。だが近年、地下からの石垣発見、竹生島の唐門、そしてオーストリアの屏風が手がかりとなり、豊臣期の“大坂城の真実”が姿を現し始めている。歴史ロマンを追った。(文・山崎博)
極楽橋とは? 豊臣大坂城に存在した〝豪華な廊下橋〟
京橋方面から大阪城の天守へ向かって歩くと、内堀に架かる「極楽橋」が見えてくる。秀吉の時代、この橋は名にふさわしく豪華に装飾され、屋上に櫓を載せた廊下橋として1596年から5年間だけ存在したという。
橋を渡った先には、山里丸と呼ばれる秀吉の〝最高級のおもてなし空間〟が広がっていた。田舎家風の茶室や庭がしつらえられ、豪華な橋の先に突然現れる「わびさび」の世界。その落差に驚く客を、秀吉はどこか誇らしげに見つめていたのではないだろうか。
しかし皮肉にも、この地は大坂夏の陣で秀頼が最期を迎えた場所となった。現在は「刻印石広場」として整備され、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」を示す碑が建てられている。
オーストリアで見つかった『豊臣期大坂図屏風』
琵琶湖北部に浮かぶ竹生島・宝厳寺の「唐門」は、古くから「大坂城の極楽橋を移したもの」と語り伝えられてきた。古文書には極楽橋が京都へ移築されて門に造りかえられ、さらに竹生島へ運ばれたようにも記されるが、いずれも伝説や推測の域を出ず、「国宝ゆえに修理方針も決められないまま傷みだけが進んでいた」と峰覚雄住職は当時を振り返る。

.webp)

そんな状況を動かしたのが遠くオーストリアから届いた知らせだった。エッゲンベルク宮殿所蔵の『豊臣期大坂図屏風』に描かれた極楽橋と唐門が酷似しており、ここから〝真実に迫る調査〟が始まることになる。
屏風絵で判明した〝極楽橋移築〟の可能性
数奇な運命をたどった屏風は東アジアから欧州へ渡り、オーストリアの古都グラーツのエッゲンベルク宮殿の来賓室「インドの間」の壁を飾った。今は「日本の間」と呼ばれる部屋だ。一見、秀吉期の作にも思えるが、関西大の長谷洋一教授は「描かれた時代と制作時期は別」で1650年頃に描かれたとする。徳川時代に〝豊臣の大坂城〟を国内向けに描くのは不自然で、海外向けの特注品だった可能性が高いという。


背景には、オランダ東インド会社の交易が盛んだった当時の国際情勢がある。1644年には「より珍しく美しい屏風を求める。価格は問わない」とする書簡も残り、欧州で日本製屏風が強く求められていたことがわかる。
エッゲンベルク宮殿のバルバラ・カイザー博士は日本製であることは把握していたが、描かれた時代や場所が分からず、2006年に日本へ調査を依頼。結果、豊臣期の大坂城を描いた八曲一隻の屏風と判明し、「八枚が一つにつながると知り、衝撃を受けた」と話す。
この屏風に描かれた極楽橋を手がかりに唐門の調査が始まり、豊臣期の遺構と確認されて修復が開始。当時と同じ顔料や漆が用いられ、2020年春に往時の姿を取り戻した。
バルバラ・カイザー博士(真ん中)峰住職(右)長谷教授.webp)
御座船「鳳凰丸」と舟廊下の謎
ただ、屏風の極楽橋と唐門は〝そっくり〟ではない。この点について長谷教授は、〝唐破風〟の屋根が重要な手がかりだと話す。絵では扉が開いていて分かりにくいが、現存の唐門には扉上部に不自然な〝切り取り〟の痕もあるという。また、移築時に解体・再構築されるため、形が変わるのも不自然ではないと教えてくれた。
さらに屏風には、豊臣秀吉ゆかりの御座船「鳳凰丸」も描かれている。まだ本格的な調査は行われていないものの、宝厳寺に残る「舟廊下」も秀吉の船に由来する可能性があるそうだ。


なぜ極楽橋は竹生島へ? 伝承と歴史背景
確かな記録は残っていないが、竹生島の対岸の長浜は、秀吉が初めて城持ちとなった地で、もとは浅井氏の領地でもあり、淀殿にとってもゆかりの深い地域だ。極楽橋を誰が島へ移そうと思いたったのかは不明だが、こうした背景を思えば、淀殿が秀吉の栄華を残そうと運ばせた可能性や、戦火を避けるため島へ移したという説も語られている。
一方で、『絵本太閤記』には、比叡山の僧・昌盛法師が竹生島で百日祈願した際、神女から「そなたの家に奇子が生まれ、その働きで天下は泰平となる」と告げられ、後にその子孫として秀吉が生まれたとする伝承が残る。史実としての裏付けはないものの、興味深い逸話である。
.webp)
葬られた豊臣大坂城
慶長20(1615)年、大坂城は炎に包まれて落城し、淀殿と秀頼が自刃。豊臣家は滅亡した。徳川幕府は元和6(1620)年から再築に着手し、10年余りをかけて「徳川大坂城」を完成させ、その過程で豊臣期の遺構は地の底に深くに埋められた。
昭和59(1984)年、配水管工事の事前調査で、盛り土の下から石垣が姿を現し、豊臣期のものと判明した。盛り土は最大10㍍以上に達し、地中には豊臣大坂城の石垣が〝丸ごと当時のまま〟残されている可能性が高い。2025年4月に開館した「石垣館」で、その一部が公開されている。



【取材協力】大阪城パークマネジメント(株)/州立博物館ユニバーサル・ヨアネウム/グラーツ市観光局/オーストリア大使館観光部/関西大学なにわ大阪研究センター/巌金山宝厳寺/びわこビジターズビューロー
