オーストリア・グラーツ
琵琶湖に浮かぶ竹生島・宝厳寺の「唐門」は、豊臣大坂城の極楽橋だった。その伝承を事実へと導いたのが、オーストリアのエッゲンベルク宮殿に所蔵されている8枚の絵だ。そこには豊臣期の大坂城が描かれていた。昨年10月、峰覚雄住職と関西大学の長谷洋一教授は、エッゲンベルク宮殿のあるオーストリアの古都グラーツを訪れ、「豊臣期大坂図屏風」と対面した。今回は両氏に、極楽橋にまつわる話と、オーストリアでの体験や思いを聞いた。(文 ・ 撮影/山崎博)

エッゲンベルク宮殿に残る、秀吉時代の極楽橋

エッゲンベルク宮殿へ
音楽の都ウィーンから古都グラーツへは鉄道で約2時間半。アルプスの山あいを抜ける絶景ルートだ。「豊臣期大坂図屏風」を所蔵するエッゲンベルク宮殿があるグラーツは、旧市街がユネスコ世界遺産に登録され、街全体が博物館のように美しい。
街の中心には、ナポレオンでさえ落とせなかった〝難攻不落の砦〟シュロスベルク要塞跡がある。16~17世紀に整えられた旧市街は、まるでアートの中を歩くよう。両氏も「奈良のヨーロッパ版のよう」と話した。街にはカフェも多く、パンのおいしさにも驚かされたという。峰住職は「グーラッシュ」、長谷教授は「シュニッツェル」が最高だったと話し、和やかに対談は始まった。
しかし、なぜ日本の屏風が遠く離れたオーストリアにあるのか。諸説あるが、1650年ごろ、オランダ東インド会社の交易が盛んだった時代、ヨーロッパで日本製の屏風が強く求められ、海外向けの特注品として描かれたと考えられている。海を渡った屏風絵はエッゲンベルク宮殿にたどり着き、私たちが思い浮かべる屏風とは異なり、8枚に分けられ、それぞれが1枚の絵として分解され、壁紙の一部として使われている。
その姿を目にした峰住職は「宮殿の美術の一部になっている」と話し、ただ飾られているのではなく、その場所で長い歴史を刻んできたことに感動したという。長谷教授は緻密に設計された宮殿の印象にも触れ、「とにかく驚いた」と話す。窓は365あり、1年の日数を表している。各階に並ぶ31の部屋は1カ月、52の扉は1年の週、24の儀式用の部屋は1日の時間を意味しているそうだ。17世紀当時、宇宙と暦の最新知識を建築に反映して造られた宮殿で、来賓室として使われてきたその部屋に、豊臣期大坂図屏風はすっかり溶け込んでいる。

極楽橋と唐門
2006年、エッゲンベルク宮殿のバルバラ・カイザー博士は、その絵が示す場所や時代背景を探るため調査を進めていた。その後、ケルン大学のフランツィスカ・エームケ博士を介して関西大学に所見が求められ、長谷教授のもとに8枚の写真が届く。
屋根付きで2階建ての橋は珍しく、長谷教授は「極楽橋ではないか」と直感した。さらに四天王寺や住吉大社、堺の景観も見られ、パズルのように組み合わせると、1枚の屏風絵としてつながった。「とんでもないものが見つかったと感じた」と振り返る。
当時の宝厳寺・唐門は損傷が激しかったが、国宝であるがゆえに簡単には修復できずにいた。古文書には記されていたものの、伝承や推測の域を出ず、本格的な調査には至っていなかった。この「豊臣期大坂図屏風」が後押しとなり、修復へと動き出し、2020年に当時の色を忠実に再現。金や赤、青を用いた鮮やかな模様がよみがえった。
「絵が決め手となって唐門の修復につながったケースは非常に珍しい」と長谷教授は話す。というのも、絵は美しく誇張されることもあれば、逆に簡略化されることもあるからだ。「絵師はおそらく極楽橋を知らないし、見てもいないと思います」ともいう。この絵は徳川時代に描かれたと考えられており、豊臣家滅亡後に絵師が伝え聞いた話をもとに描いた可能性が高いという。

橋は門に姿を変えた
峰住職は調査の際、顔料検査などで「古い漆が出てきた」と言われた当時を振り返る。徹底した調査の積み重ねで、豊臣大坂城の遺構だと判断されていった。また、「唐門の奥にある観音堂からも同じ漆が見つかった」と説明を受けたそうだ。
これに対し、長谷教授は「極楽橋を唐門に転用した場合、部材が余れば、ほかに使われた可能性もある」と話す。建物を移築し橋から門へと姿を変えれば、余る部材が出るのは自然なことだ。それを捨てたとは考えにくい。その先にある「舟廊下」も、秀吉の御座船「鳳凰丸」に由来する可能性があると伝わる。竹生島にはまだ隠されたロマンが残されているのかもしれない。
現地のセッションでバルバラ・カイザー博士と対談し、新たな気づきや発見はあったかと聞くと、二人は「ヨーロッパには今回の屏風絵のような美術品がまだ残されている可能性を感じた」と話す。その中で長谷教授は「ヨーロッパでは保存まではうまくいっても、その先の研究がほとんど進んでいない」と指摘する。特に日本は「極東」や「アジア」という大きなくくりで見られがちで、日本そのものを対象にした研究はまだまだ少ないという。そう思うと、まだ見ぬ発見が眠っているのかもしれない。

秀吉の気配を感じて
今、大河ドラマ「豊臣兄弟」が話題だ。秀吉といえば大阪城が思い浮かぶが、私たちが今目にしている天守や石垣、堀はいずれも徳川時代以降のものだ。地中深くに埋もれていた豊臣期の石垣は「大阪城 石垣館」で昨年から見られるようになった。一方で、豊臣大坂城唯一の遺構とされる極楽橋が竹生島・宝厳寺の唐門として今も残っていることは、あまり知られていない。
最後に、この唐門のように豊臣大坂城の遺構が竹生島以外にも残っている可能性はあるのか。二人は口をそろえて「聞いたことがない」という。そう考えると、豊臣大坂城を語るうえで、エッゲンベルク宮殿が果たした役割は極めて大きい。この情報がなければ唐門は修復されず、今も伝説のままだったかもしれない。


