黒毛和牛に仔羊にガイヤーン 立ち飲みレベルを超えた料理が狭小厨房から約60種

こんなところに名店が「灯台もと旨し」
猫田しげる

知らずに暮らしているなんてもったいない!あなたの街の、あんなイイ店、こんなイイ店。「入りづらい」「高そう」「怖そう」? 大丈夫!グルメライター猫田しげるが、扉を開ける一歩をお手伝いします。

 「仔羊のランプ肉ロースト」「鶏白肝フォアグラ仕立」「ガイヤーン(タイの焼鶏)」「エビとバジル(ガパオ)炒め パッキーマオ風」……。
 老舗フレンチレストランでもタイ料理店でもない、これらは立ち飲み屋のボードに並ぶ品書き。お世辞にもピカピカとは言い難い(失礼!)目の前の狭小厨房から、これらの料理が全て出てくるとはおよそ信じられない。店内も4坪ほどのスペースで、カウンターに8人も立てばギュウギュウ、奥の人が手洗い(外)に行くには手前の誰かが腹を引っ込めるか、一緒に出るかしないと通れない。袖すり合うにもほどがある。

タラ白子のウニバター焼き 980円はバゲット付き
タラ白子のウニバター焼き 980円はバゲット付き
具は季節替わり、セコガニとトビ子のマカロニグラタンからすみかけ980円。からすみも自家製
具は季節替わり、セコガニとトビ子のマカロニグラタンからすみかけ980円。からすみも自家製
黒毛和牛ローストビーフ880円
黒毛和牛ローストビーフ880円
なぜか天下一品のお椀で出てくる、鶏首皮(名古屋コーチン)のパリパリ焼き400円
なぜか天下一品のお椀で出てくる、鶏首皮(名古屋コーチン)のパリパリ焼き400円
業務用ではない、幅広パスタでアレンジがきいたマカロニサラダ380円
業務用ではない、幅広パスタでアレンジがきいたマカロニサラダ380円
鶏白肝フォアグラ仕立600円
鶏白肝フォアグラ仕立600円
ガイヤーン(タイの焼鶏)680円はスイートチリソースでいただく
ガイヤーン(タイの焼鶏)680円はスイートチリソースでいただく

 カウンターと厨房をワンオペで切り盛りするのは、マスターの「かんちゃん」こと神崎儀幸さん。初めて訪れた客はその眼鏡の奥の眼光に「げ! 怖そう」と一瞬怯むかもしれない。でも、恐る恐る「おすすめの日本酒ありますか」と尋ねてみれば、「あいよ! 『新政』の№6ダイレクトパス入ってるよ!でも高級酒だから、ウチみたいな立ち飲み屋で出してるってバレたら、蔵元から怒られちゃうかも」と破顔。めちゃくちゃ気さくでフレンドリー。「大阪・実は怖くなかった店主選手権」があったら3位には入賞できるだろう。

だいたい赤かピンクの服を着ているかんちゃん
だいたい赤かピンクの服を着ているかんちゃん

 それもそのはず、かんちゃんは若い頃「リーガロイヤルホテル大阪」にサービスマンとして入社、以降は東京・銀座の「マキシム・ド・パリ」、都内のホテル、「ホテルニューオータニ大阪」などそうそうたるホテルやレストランで接客一筋にやってきたお人。待てよ、料理経験は? 「ないよ。でもホール担当でも厨房のことまで全部頭に入っていないとお客さんに説明できないからね」。なるほど、調理場に立たずとも、料理人から聞いて見て覚えた膨大な知識を血肉に、自らの料理として形にしているのだ。独立して最初に開いたのがこの店というから驚く。「お金がなかったからね。立ち飲み屋の居抜きだったから、このままでやろうって」。もう23年になる。して、立ち飲みとは思えぬクオリティの料理。鴨肉のローストは赤ワインやバルサミコ酢などを煮詰めた自家製ソースで仕上げ、ベシャメルから作るグラタンはセコガニとトビッコをしこたま入れ、からすみを削ってオーブンで器ごと焼き上げる。ハムもベーコンも手作り。定番以外のバリエーションも柔軟で、最近タイ料理づいているなと思ったら「天神橋筋商店街にアジア食材店ができたでしょ。お店の人にレシピ聞いた」。タイカレーやガイヤーンがマイブームらしい。とにかく和・洋・中からイタリアン、フレンチ、エスニックまで、レパートリーの豊富さに舌を巻く。

鴨の胸肉ローストかんちゃん風980円はしっとり歯が入る柔らかさ
鴨の胸肉ローストかんちゃん風980円はしっとり歯が入る柔らかさ

 そんな〝クセ強〟店主には、ちょいマニアックなファンも多いわけで。「僕ら今日4軒目なんですよ」と、左隣で酩酊していた男女4人組が謎の自慢をしてきた。まだ午後5時……まあ、天満では当たり前の光景か。ご夫婦同士かと思いきや「前に明石の飲み屋で出会って、意気投合して。今日は天満で集合したんです」。対して右隣のお兄さんたちは、どうやら飲食店関係者のよう。かんちゃんの手元を見ては「ああやって作んねや。勉強なるな~」としきりに感心している。客のほとんどが「この人に連れられて」「いい店あるって教えてもらって」やって来た〝芋づる系〟。こういう連鎖で、かんちゃんファンが雪だるま式に増えるのだなとつくづく実感する。

まさかの全員血縁関係なし、飲み屋で出会った人同士だった男女4人
まさかの全員血縁関係なし、飲み屋で出会った人同士だった男女4人

 かつての天満市場はまだマンションではなく、かんちゃんが来た頃も周辺は静かだったという。それがこの15年ほどでガラリと様相が変わった。コロナ後に若者が増え、個人店がどんどん減った。でも中にはまだ、かんちゃんのように地元客に愛され続ける古い店がある。「飽きられないように、頑張るしかないね」。かんちゃんが眼鏡の奥でちょっと真面目な眼差しになった。
 ふと、目の前に賽銭箱があることに気付く。隣のお兄さんがおもむろに小銭を入れる。「いや、賽銭箱あったら入れてまうやん。これ明日のマスターの飲み代になんねんで。ハハハ」。箱を持ち上げてみると、けっこうズッシリ。飲み代になるかどうかは知らないが、これ、かんちゃんへの愛の重さなのかも。

日本人は、賽銭箱があるとお金を入れたくなるらしい
日本人は、賽銭箱があるとお金を入れたくなるらしい

立ち呑み かんちゃん
大阪市北区池田町1-31 サニーハイツ天満 1階
電話なし(連絡はインスタのDMより) 午後5時~翌午前2時、不定休

猫田しげる 20年以上、グルメ誌、旅行本、レシピ本などの編集・ライター業に従事。各地を転々とした挙句、現在は関西在住。「FRIDAYデジタル」「あまから手帖」「旅の手帖」などで記事執筆。めったに更新しないブログ 「クセの強い店が好きだ!」もどうぞ。SNS苦手。