須田健太郎社長は1985年1月8日、マレーシア人の華僑(客家)の母と、日本人の父のもとに生まれた。転機が訪れたのは成人式の日。「その日の同窓会がめちゃくちゃ楽しくて。夜にベッドの中でふと、『こんなに楽しい日は次いつあるのかな』と思ったんです」。成人式は20歳を祝うイベントだから二度とない。21も22も23歳も人生で一回しかない。年を重ねた先に待っているのは、「死」。その現実に途方もない衝撃を受ける。「いずれ死んでしまうのに、なぜ生きる必要があるのか」。自問自答を続け、やがて一つの結論を出す。「生きること自体に意味はない。じゃあせめて、死ぬ日がくるまでに世界中の人々を幸せにする会社をつくろう。それを世界企業にできれば、僕が死んだあとも、会社が幸せな人を生み出し続けることができる。それなら、少しは僕が生きた意味がある」
須田社長の生きる姿勢は学生のころから一貫している。15歳から20歳までアルバイトをしていたマクドナルドでのエピソード。その店舗には、元気よくコーヒーを頼む常連のおじさんがいた。ある日、その人の表情が心なしか暗く感じた須田少年は、いつもより笑顔で、愛情をこめてコーヒーを出した。すると、おじさんの表情がぱっと明るくなったという。「そのとき気づいたんです。五感を研ぎ澄ませ、お客様の些細な変化に気づく。愛情をこめて接客すれば、お客様に商品を買った以上の喜びを感じてもらえる。マクドナルドはハンバーガーを売っているだけではない。心を提供している場なんだって」
2010年、須田社長は日本のGDP(国内総生産)が中国に抜かれることを知る。戦後の焼け野原を20年足らずで世界二位にしてくれた先人に、「せっかく日本人として生まれたのだから、日本の元気の原動力とならなければならない。観光立国にして、日本のファンを世界に広げる。そして、あのコーヒーおじさんのような表情の人を世界にたくさんつくりたい」。
2007年、須田社長は22歳で株式会社フリープラスを創業。2010年より訪日観光業に参入する。それからわずか12年で、世界40カ国と取引する売上高50億円、 20国籍以上から成る総メンバー360名の企業に成長させる。「もちろん、初めからうまくなんてことはありませんでした。勇気をもってスタートし、何があっても信念をもってやり続ける。それくらい努力できる人だけが世界を変えていける。先輩経営者からは、『人脈もないのに海外進出なんて早い』とか、『騙されるよ』とか色々言われましたが、人脈はつくれましたし、騙されることもなかった」。須田社長は世間の常識に決して惑わされない。濁りのない目は、ゴールだけが見えている。だから、最短距離で目標に到達できるのだ。
関西のベンチャー業界の社長には、元フリープラスの社員が多い。彼らは口を揃えて、「自分の中に、フリープラスの精神が生きている」と言う。それは、須田社長のDNA、〝人生に残る最高の思い出をプレゼントする〟が息づいている確かな証だ。
須田社長は2020年1月8日、誕生日の日に株式会社客家を創業した。事業の内容は、経営に関するコンサルティング、アドバイザリー業務だ。「僕の能力や知見、エネルギーを活用して、いかにして相手の役に立てるか。その探求が幸せなんです」。話を聞いていると、須田社長が人生を選んだというより、神様に選ばれた人生を生きているように思えてくる。
自宅を兼ねる西宮のオフィスにお邪魔すると、書斎には10年前、知り合った当時に私が贈った短歌パネルが飾られていた。「これ、気に入ってるんですよ」と笑う。その細やかな気配りは半分は職能だろうが、あとの半分は持ち前の美質だろう。
口角をあげて差しだす 最高って一杯のゆげだ気がつくことだ
【プロフィル】歌人 高田ほのか 大阪出身、在住 短歌教室ひつじ主宰。関西学院大学文学部卒。未来短歌会所属 テレビ大阪放送審議会委員。「さかい利晶の杜」に与謝野晶子のことを詠んだ短歌パネル展示。小学生のころ少女マンガのモノローグに惹かれ、短歌の創作を開始。短歌の世界をわかりやすく楽しく伝えることをモットーに、短歌教室、講演、執筆活動を行う。著書に『ライナスの毛布』(書肆侃侃房)、『ライナスの毛布』増補新装版(書肆侃侃房)、『100首の短歌で発見!天神橋筋の店 ええとこここやで』、『基礎からわかるはじめての短歌』(メイツ出版) 。連載「ゆらぐあなたと私のための短歌」(大塚製薬「エクエル(EQUELLE)」)