【大阪歴史散策】消えた真田丸を探せ! 今も残る高低差や抜け穴、古堀…幸村の痕跡を追う

真田丸推定地のイラストマップ(絵:佛崎一成)

 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の人気を受け、10年前の堺雅人主演「真田丸」を見直している人も多いだろう。私もその一人で、実際に真田丸のあったとされる場所を歩いてみた。大坂冬の陣で、難攻不落といわれた大坂城の弱点を補うように真田幸村(信繁)が築いた出城「真田丸」だが、講和後に破壊され姿を消した。今は正確な位置や範囲は定かではないが、現地を歩くと坂道が続き、高低差も感じられた。(山崎博)

「空堀通」付近まで大坂城だった?

 JR玉造駅から空堀通を通り、真田丸があったとされる場所へ向かう。地名の「空堀」は水のない〝空(から)〟の堀に由来し、付近には、かつて大坂城を守るための空堀があり、その南側は城外だったと考えられている。つまり、現在の空堀通付近が大坂城の南の境目だった。

 現在の地形からは想像しにくいが、豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端にあった。当時、東に猫間川・平野川、北には淀川、西には東横堀川があり、三方は川や堀に守られていたが、南側だけは陸続き。そこで秀吉は城下町まで取り込む惣構を築き、南側を守る防御線として空堀を設けたという。

心眼寺(左)と大阪明星学園中・高(右)の間にある坂。真田丸の高低差だろうか
右側の白い車の後ろに見える壁の上が心眼寺。この高低差は真田丸の名残だろうか

真田丸とは

 秀吉の死後、関ケ原の戦いを経て、天下の実権は徳川家康に移った。しかし、大坂城には秀吉の子、秀頼がいたので豊臣家はなお大きな存在。両者の緊張は高まり、1614年、ついに大坂冬の陣が始まった。真田幸村は豊臣方に呼ばれて九度山を抜け出し、大坂城へ。通説では大坂城の弱点を補うために幸村が城の南側に築いた出城が「真田丸」だったという。

 この出城に手を焼いた徳川方は、豊臣方に講和を持ちかけた。この講和で外堀は埋められ、真田丸は破壊される。現在、大阪明星学園のテニスコート東側に「真田丸顕彰碑」があり、心眼寺の門前には「真田幸村出丸城跡」の石碑が立つ。

心眼寺の門前に立つ「真田幸村 出丸城跡」の石碑

場所や規模は

 その後、周辺の地形も変わったため、真田丸の正確な位置や範囲、規模、構造には不明な点が多い。心眼寺によると「ここは真田丸の北東部にあたり、範囲は大阪明星学園の校舎やグラウンドを含め、鎌八幡の辺りまで広がっていたのではないか」と話してくれた。さらに「当時、心眼寺は真田丸の中にあり、もともとこの場所にあった寺を利用して砦(とりで)を築いたのではないか」という。

 現在は寺の隣に興徳寺と大應寺が並ぶが、当時は大阪明星学園のグラウンド付近にも寺があったという。確かに、古地図「諸国古城之図」にも、真田丸の中に寺が並んで描かれている。

提供画像:広島市立中央図書館(浅野文庫)所蔵、「諸国古城之図」のうち「摂津 真田丸」(部分)

境内に真田の墓

 心眼寺の境内には「真田左衛門佐 豊臣信繁」の墓がある。大坂冬の陣から400年後の2014年に建立された。秀吉の文禄年間に創建された心眼寺はその後、真田丸に取り込まれ、冬の陣の後に真田丸とともに取り壊された。だが、1622年に真田幸村父子の冥福を祈って再建されたという。徳川の時代に反旗を翻(ひるがえ)した真田親子をとむらうのに、表立っては墓を建てられなかったようだ。それでも許されたのは、徳川方に信繁の兄・信之がいたため、配慮があったのかもしれない。

必勝祈願の鎌八幡

 鎌八幡の辺りは三韓坂と呼ばれた古道で、そばに一本の榎の霊木があり、人々の信仰を集めていたという。この信仰を聞いた幸村は陣を構えた際、榎に鎌を打ちつけて「鎌八幡大菩薩」と称し、戦勝を祈願したところ、大いに戦果をあげたと伝えられている。なお、鎌八幡で知られる圓珠庵は、心願成就のほか、縁切りや病根断ちを願う人たちにとって心の拠り所となってきた「信仰の寺」だ。参拝者のプライバシーに配慮し、境内は全域撮影禁止となっている。

鎌八幡で知られる圓珠庵。心願成就のほか、縁切りや病根断ちを願う人たちにとって心の拠り所となってきた

真田の抜け穴

 もっとも歴史ロマンをかき立てるものの一つが「真田の抜け穴」だ。付近には産湯稲荷など、抜け穴の伝承が残る場所が数カ所あるという。中でも有名なのが、三光神社に残る穴。神社では「真田幸村が此の地に偃月城と名付ける砦を定め、本城よりここに至るまで地下に暗道を設けた」と伝えている。この穴については諸説ある。

 宮司の小田則弥さんは「大坂城までの距離を考えると、言い伝え通りかは謎」と話す。小田さんは「子どもの頃に肝試しで中へ入ったこともある」という。現在は保存のために柵が設けられ、中には入れないが、かつては子どもたちの遊び場でもあり、地域住民に親しまれてきたようだ。

三光神社の境内にある「真田幸村像」と「真田の抜け穴」

徳川が掘った説も

 一方、「真田の抜け穴」は「徳川方が真田丸を攻めるために掘ったものだ」という説もある。「大阪史蹟辞典」によると、三光神社付近には幸村山と呼ばれる小丘があり、そこは大坂冬の陣で徳川方の加賀宰相・前田利常が陣を構えたことに由来するという。真田丸を攻めた前田軍がこの地にいたなら徳川方が掘った説があっても不思議ではない。真田方か、徳川方か、それとも別の誰かが掘ったのか…。諸説あり、正体が分からないからこそ想像が膨らむ。

真田の抜け穴の中。入り口の高さは約140センチで奥は行き止まりになっている

地下に眠る大坂城の外堀

 真田丸があったとされる一帯から、空堀通を10分ほど西へ歩くと、空堀商店街に「お好み酒家 ん」がある。店の地下には「昔の大坂城外堀」と紹介されている石積みがあり、それを眺めながらお好み焼きや鉄板料理を楽しめる。歴史好きにはおすすめだ。

「お好み酒家 ん」の地下の座敷から見られる大坂城の外堀(空堀)
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