半年184日開催された「大阪・関西万博」が終わった。街を歩けば鉄道や商業施設からは「ミャクミャク」など赤・青・白の象徴的デザインが見事に姿を消している。私は1970年「大阪万博」の時は20歳大学生で、夜間割と学割をうまく使って計10回前後訪れた。今は75歳となり、未だ現役記者として取材執筆で13回入場した。その実体験を通じ、開催テーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」を描けたのかを検証する。

「入場制限」が生んだ満足感
『大阪・関西』再浮上なるか?
狭く不便な会場でも約2550万人来場
入場者は延べ2557万8986人、我々取材陣を含めたスタッフら関係者を含めると延べ2901万7924人と発表。平均して1日15万7706人が会場を訪れた事になる。協会の事前想定は総計延べ2820万人だったから1日平均するとほぼ試算通り。最高に入った日は閉幕前日の10月12日で24万8002人。1日最多数予測も24万人だったから全て予定内だ。
4月開幕当初は1日14万人台、それが5月連休を境に徐々に増え9月以降は連日20万人台に。開幕前は「前売り券低調」が話題となったが、9月末には入場券販売を終了。入場予約枠は閉幕日まで早々と埋まり、購入者が持つ通期券や前売り券が使用不能となり問題化した。
夢洲会場は155㌶と「愛知万博」(2005年)173㌶より狭く、「大阪万博」(1970年)330㌶の半分でしかない。交通は大阪メトロ中央線利用が頼りで、最短2分半間隔での運行でも満員状態。マイカー乗り入れ全面禁止でバス輸送と水上バスを補助的に仕立てたが、お世辞にも「補完できた」とは言いがたい。事務局は「会場が狭く、交通に限界があり入場制限した」と認めている。仮に無制限入場させれば観客だけで300万人を軽く突破したはずだ。
それでも幸せな人々
結果として「入場できただけで幸せ」という奇妙なレア感覚が生まれ、期間中大阪府警が扱った場内犯罪は万引きやけんか口論程度で群衆事故やテロなど重大犯罪はほぼ皆無だった。コロナ禍や無観客の寂しい東京五輪を経験した人々にとって、入館待ちの行列もどこか楽しげに見えた。長ければ半日に及ぶ待ち時間も談笑しながら過ごし、割り込みトラブルもほぼ見かけなかった。
事前の「デジタル化で並ばない万博」の掛け声は、入場枠もパビリオン入場予約も苦手な高齢者世代には「来るな!」と言われているように感じた人も多い。ペーパーレス、キャッシュレスも徹底し場内配置図の無料配布も無く、飲料自販機に至るまで全て現金不可。実社会ではデジタルが出来ない場合はスタッフが手伝ってくれるアナログ代替があるが、それも無い。確かにお隣の韓国では既に9割がキャッシュレスだそうだが、日本は未だ3割程度しか普及していないのが現状なのに。
大屋根リングは成功、ハードル高いリサイクル
シンボルの「大屋根リング」は建設過程で350億円の高額費で非難の嵐だったが、結果として正解だった。来場した人が予約無しで必ず体験できる唯一の施設であり、歩いて、眺めて、たたずんで、そして時にはイベントで踊って皆で楽しめた。閉幕後の再利用だが残すと保存のための改修に40億円、維持管理に10年間で15億円程度が必要。材質が1枚板でなく集合材なので経年劣化が早く長期使用には不向きだが、石川・珠洲市の災害復興住宅に一部が転用される。仮に鋼材で作れば「半額以下で出来た」と言われている。
一部のパビリオンや展示物が、移設され再利用されるのはどの万博でも同じ。今回も2割程度が再利される予定。移設に伴う輸送費や再構築費は引き取り手の負担で結構重い。簡単に「レガシー(遺産)」として残せる訳ではなく、パビリオンなどの備品類(エアコンはじめ、液晶ディスプレー、ベンチや事務用品など)も競売に掛けられているが、閉幕までに行き先が決まった物の方が少ない。
期待外れの代表は「空飛ぶクルマ」だ。開幕前は「交通インフラが弱い夢洲へひとっ飛び」と〝未来の移動手段〟として大いに期待されたが、デモフライトで機体破損が起き飛行中止。結局、会期中に実証実験しただけで終わった。
万博開催は2012年頃、松井一郎府知事と橋下徹大阪市長の維新創設コンビと、70年大阪万博時に通産官僚として関わった元経企庁長官、堺屋太一(19年、83歳で死去)との食事の席で提案に意気投合したのが始まり。堺屋は単純に「もう一度大阪で」と考えたが、松井・橋下の頭には夢洲の存在が浮かんだ。
夢洲は1977年廃棄物処分場として埋め立て開始、その後は6万人規模の住宅建設を計画。しかしバブル経済崩壊で塩漬けとなり、「2008年大阪五輪」開催誘致で選手村候補に再浮上したが、これも失敗。松井・橋下コンビはIR(カジノを含む統合型リゾート)とセットで万博誘致へと切り替えた。当時の夢洲は自動車道しかない孤島だったが「大阪メトロ、京阪、JRが延伸すれば活性化できる」と目論んだ訳だ。
大阪は「70年万博」大成功の後、皮肉にも坂道を転がるように政治経済の力を失った。西の拠点に南港3島(咲洲、舞洲、夢洲)、東の拠点にOBP(大阪ビジネスパーク)と森之宮新ターミナル一帯を充てる計画を本格化させている。IRの是非はともかく「大阪を地方都市に埋没させず、再び東京と並ぶ副首都機能を持つ〝大(だい)大阪〟に」という意欲を感じさせる。
万博の収支について「280億円の黒字」とメディアは分析しているが、元々べらぼうなインフラ整備や会場建設費が掛かっており、何をもって〝黒字〟と表現できるか疑わしい。しかし当初シミュレーションした「最もうまくいった場合」の数値に到達したことは間違いない。コロナ禍をすり抜けたことも、最も心配された南海トラフ地震による津波、そして台風や線状降水帯などの自然災害襲来もなかった。イスラム教国が多く集まり、イスラエル館もあって心配されたテロも起きず、会場内で大きな火災や事故もなかった。これらは想定が難しかっただけに、現在維新を率いる吉村府知事の強運を感じさせる。
万博会場北側49㌶では既にIR建設が進行。2030年の開業に向け、これからの府市の維新首脳関心事は、弱いインフラ整備にJRと京阪の延伸実現に力を入れる事で、そのための公的資金導入を実現させる政治力。万博跡地は既に〝IR促進の露払い〟としての役割は十二分に果たしてくれたので、再利用計画は延伸論議の後で間に合うのだ。
動き出した副首都構想
70年万博の時の日本は高度経済成長の入り口にあり、今年の万博は少子高齢化の成熟期と置かれた立場が全く異なる。一般観客は見えづらいが、万博は世界と日本のビジネスチャンスの場でもあった。大阪の中小企業も万博で得た新技術を地場産業に取り入れたり、新たな販路となる国を見つけたりする機会が多々あった。関西地域として一体感を持って東京一極集中に対峙して行く事が出来るのか? その糸口を得られたのか? それらが具体的に動き出さないとにわかに浮上してきた〝副首都構想〟もただの画餅になってしまう。
愛知万博のマスコット・キャラクター「モリゾー&キッコロ」は今も中京地方では愛され続けている。「ミャクミャク」は登場時こそ〝不気味、妖怪?〟と言われたが、今では人気キャラクターに。グッズ販売も好調で、場内あちこちに置かれていたミャクミャクのモニュメントも落ち着き先が次々決まった。私も「見えるレガシー、見えないレガシー」の存在を、しっかりと見極めて行きたい。
