【能登半島地震2年】町内唯一の医師が挑む「結(ゆ)い」の再生 粟倉医院院長の大石賢斉さん

 能登半島地震から2年。最大震度7の激震が襲った石川県輪島市の東の山あいに位置する町野町では約20人が犠牲となり、家屋の8割が半壊以上の被害に遭った。さらにその年の9月には、記録的な豪雨が奥能登を襲い、追い打ちをかけた。そんな絶望の淵に立たされた町で、「町づくり」という名の治療を続ける医師がいる。粟倉医院の院長、大石賢斉さんだ。彼が見据えるのは、単なる「復旧」ではなく、コミュニティーそのものが持つ「自力」の再生だった。(佛崎一成)

診療所で医師として働く一方、被災地再建のために自らも重機を操り復旧作業を行う大石院長=石川県輪島市町野町

 ─あの日、震度7の激震が町を飲み込んだ。

 実は震度7が2度来たんです。私がプール施設の扉をつかんだところで最初の地震が来ました。引き手から手を離すと飛ばされて、壁にたたきつけられるのではないかと思いました。

 いったん揺れが収まったので外に飛び出しましたが、ほどなくして2回目の震度7が始まりました。この揺れで次々と家が倒壊し、砂煙が舞い上がりました。砂煙は海側から山側に向かっていくんです。見えないはずの地震波が地表を駆けるのがわかりました。

 電柱はことごとく傾斜し、道路はアスファルトが隆起して車も走れない。多くの橋では1㍍近い段差ができ、町は完全に孤立しました。

 ─先生の診療所は。

 母方の祖父が戦後まもなく建てた木造平屋の診療所は半壊で耐えましたが、隣にあった自宅が診療所にもたれかかっていました。

─けが人も多く出たと思う。震災直後の治療はどのような形で行われたのか。

 「道すがら」の手当てです。私は外出先で被災したので、診療所へ戻る途中にけが人を見つけては手当てをしたり、潰れた家から運び出された方々を診たり…。致命傷を負った方のご家族には、「もう、戻ってこられません」と告げなければならない場面もありました。

震災直後の町野町。大石さんによると、二度目の激震で多くの家屋が崩れた

 ─先生の他に医師は。

 人口2000人ほどの町野町で医師免許を持つのは私一人です。

 2日目の昼過ぎから細々とヘリでの搬送が始まりました。ただ、一度に運べる人数には限りがある。骨盤を骨折した少年か、頭に重傷を負ったおばあちゃんか、どちらを先にヘリで搬送するべきか…。通信手段が途絶え、ヘリがいつ来るかも分からない中、看護師や消防の仲間、けがをした本人や家族を含め、関わる人全員で決めていくんです。

 ─「うちの家族を先に」と揉めなかったか。

 揉めなかった。やはり大災害を前に町全体に強力な「磁力」のようなものが生じて、誰を優先すべきか、自然と空気が一致していくんです。それが「町野」という家族のようなコミュニティーの底力だったのかもしれません。

被災地の状況を説明する大石賢斉院長=兄・賢玄医師の大石クリニック(箕面市船場西)

待つ復興から、つくる暮らしへ 町野で始まった“町づくりという治療”

 ─先生はずっと関西で過ごしてきた。能登とのつながりは。

 生まれは輪島市です。祖父母の家が町野町にあり、夏休みや正月に遊びに行っていて、2015年に移り住むまでは「楽しい思い出がある場所」という感覚でした。拠点をこの町に移してから約10年。今では住人の3分の1の顔は知っている。医療者という壁を越え、私も「住民の一人」として町に関わってきました。それが、あの極限状態を乗り越える鍵になったのかもしれません。

 関西との違いを感じるのは、能登の人たちの圧倒的な「自力の強さ」です。都会では何か思い通りにいかないことがあると「医療者のせいだ」「病院が悪い」と他人のせいにしがちな傾向があった。自分の健康のことなのに、どこか他人任せです。

 しかし、能登の人は違います。自分のことは自分で責任を持つ。自分がこの医者を選んだのだから、結果も自分の責任という覚悟がある。

 震災後も孤立してしまった町に最初に道を通したのは、自衛隊でも行政でもなく、住人たちでした。

自ら重機を操り復旧作業を行う大石さん

 ─その「自力」はどこから生まれるのか。

 自然との関わりの深さだと思います。能登での生活は都会と違い、常に自然との対峙です。人は人間社会だけで生きているのではない、自然の一部として生かされているのだと思い知らされますから。

 だから、自然相手に「あいつが悪い」と言っても何も始まらない。思い通りにならない自然を受け入れ、その中でどう立ち回るかを考える。その循環の中に身を置いているからこそ、自分の責任で生きる力が養われるのだと思うんです。

 ところが、そんな自力の強い能登の住民でも、私が今進めている「家を建てる」という分野では途端に弱くなってしまう。

 ─他責にしがちだと。

 そうなんです。地震で家を失うと、みんな「行政が何とかしてくれないか」「誰か建ててくれないか」と外の支援を待つ側に回ってしまう。そして、思うように進まないと行政の不満を口にするようになる。

 しかし、日本では元来、家の建築は村人総出でした。住民が集まってワイワイやりながら、みんなで家を建てた。その「結(ゆ)いの精神」が途絶えたことで建築の知識も技術も、そして自分たちの手で暮らしを作るという自信も失われてしまった。その欠落が不安を呼び、落ち込みを生み、最終的には病気という形で現れるのだと思います。

 ─先生が進めるログハウスプロジェクトは、その自力を取り戻すことがねらいか。

 その通りです。今の能登は外部から住宅メーカーを呼んで家を建てようとすれば、坪単価で200万円を超える。これでは普通の人は再建をあきらめるしかありません。それならば、自分たちの手で建てればいいんです。

 ログハウスなら私のような素人でも本を読みながら形にできる。実際に自分でログキャビンを建ててみたのは、その実証実験でもあった。家を建てるという「目に見えた行動」をみんなで行い、そこでの失敗や課題を自分たちで乗り越えていく。そのプロセスこそが、「自力」を取り戻す最高の治療になるんです。

>>クラウドファンディング『家 建てっぞぉ~』能登・町野の自力再生プロジェクト

震災後の山の倒木を生かし、大石さん自らの手でログキャビンを建築

 ─昨年9月の豪雨は、その「自力」を試すさらなる試練となったのか。

 洪水は確かに表面をさらっていきました。私のキャビンも流され、多くの人が「今度こそ心が折れた」と言いました。

 しかし、折れている暇なんてない。降雨のないエジプトでは、ナイル川の洪水で農作物を育てました。つまり、洪水は「恵み」でもあるはずなんです。自然の破壊の裏には創造的な何かが必ずある。

 実際、豪雨の泥出しをきっかけに、重機を扱えるボランティアが仲間に加わってくれた。大雨がプロジェクトを加速させる仲間を呼び寄せてくれたんです。

 ─先生から大阪の読者、そして日本全体に伝えたいことはあるか。

 震災直後、お笑い芸人やアーティストの支援を「不謹慎だ」「今じゃない」と批判する風潮がありましたが、私は逆だと思うんです。不穏な空気は住民からエネルギーを奪い、病気を作ります。そこを元気にできるのは医療者ではなく芸人さんやアーティストですから。

 大阪は「お笑いの聖地」ですよね。震災直後で不安になっている時こそ、身一つで人を笑わせ、私たちを元気にしてくれるアーティストをもっと被災地に送り込んでほしい。笑うことは生きる力を呼び覚ます最高の治療であり、リハビリなんです。

 ─先生の取り組んでおられることは単なる被災地復興の枠を超え、日本全体に今必要な「自力」を取り戻す取り組みだと感じる。

 自分の責任で生き、自らの手で暮らしを築き、お互いに助け合う。そんな自立したコミュニティーがあれば、人は自ずと幸せになり、病気も減る。

 私の中では、聴診器を持つことも、チェーンソーを持って家を建てることも、「人を幸せにする」という本来の医療そのものなんです。

愛鶏を抱きかかえる大石さん

大石賢斉(おおいし・まさなり)さんプロフィル 石川県輪島市生まれ、滋賀県大津市育ち。神戸と彦根での病院勤務を経て、父の死を機に2015年、粟倉医院を継承。24年1月の能登半島地震、同年9月の豪雨災害を経験しながら、地域医療のかたわら、地産地消のログハウスによる街づくり「『家 建てっぞぉ~』能登・町野の自力再生プロジェクト 」(クラウドファンディングも実施)を主導している。

【関連記事】「すぐそばにいる安心を」地域に寄り添う医師の覚悟 大石クリニック院長の大石賢玄さん

タイトルとURLをコピーしました