孤独死時代の葬儀を考える 最期の「見送り」方を分けるのは〝人の縁〟

 葬儀を巡って、いまさまざまな課題が浮かび上がっている。生活保護を受給している人、福祉の支援がある人とない人。経済的余裕があっても引き取り手がいない人。とりわけ遺骨の行き場を巡る問題は深刻化しており、最期の見送りが寂しいものになってしまうケースも少なくない。

 生活保護を受けている人の中には、自身の葬儀を〝諦めている〟人も多いと「エンディングライフサポート葬祭」(大阪市)はいう。どうせ自分の望む最期にはならない、そう思い込んでしまっているのだ。だが、公的制度には「葬祭扶助」があり、直葬一択といった決まりきった形だけではないことを、もっと知ってもらう必要があると同社は強調する。

 鍵となるのは「見送り方」だ。遺族に連絡がつく人と、まったくつかない人。その差は極端である。

 最近、大阪市西成区で61歳で孤独死した男性の遺品整理が行われた。まだ若く、一定の財産もあり、年齢からしても引き取り手や人間関係が残っていると思われた。しかし、親族は誰一人として名乗り出なかった。定期預金は死後に凍結され、結果として公的制度の葬祭扶助で葬儀を行うことになった。引き取り手がいなかったため、亡くなってから発見されるまでに時間もかかった。もし親族が現れていれば、まったく違う見送りになっていたはずだという。こうした事例は、近年の葬儀で増える傾向にある。

 一方で、対照的なケースもあった。前述の男性と偶然にも同じアパートに住み、時期も近かった77歳の男性も孤独死だったが、周囲の関わりが違っていた。地域で夜の見回りを続けるボランティアと親しく、彼らの手厚い支援のもとで葬儀が営まれた。葬儀後も、まるで親族のように関係者や葬儀業者に礼を述べていたという。故人は生前、「万が一のときは両親と同じ墓に入れてほしい」と伝えており、その一言が、その後の対応を大きく左右した。

 引き取り手が見つからず遺骨の行き場が定まらない場合、自治体が一定期間保管したのち、他の遺骨とともに「無縁仏」として合祀される。

 独り身の場合、たとえお金があっても、親族や地域など人と人とのつながりがなければ、寂しい見送りになってしまう。現代社会における関係性の希薄さを痛感させられる現実だ。これは一過性の問題ではなく、今後さらに増えていくとみられる。

 コロナ禍を経て、人間関係の希薄さはより鮮明になった。デジタル化が進み、安さや効率、合理性が優先される一方で、「面倒」を避ける風潮が広がる。その裏側にあるのは、〝心の貧しさ〟ともいえる現代病ではないか。

 それでも、地域には夜の見回りを続けるボランティアのように、人を支えようとする存在がある。生活保護を受けている人や独り身の人にとっても、事前に意思や希望を共有しておくことが、最期の見送りに影響を及ぼす。人とのつながりの有無が、その在り方を左右している。

<取材協力>エンディングライフサポート葬祭/大阪市阿倍野区阿倍野筋5丁目13−10/電話(0120)805787
https://endinglifesupport.com/

タイトルとURLをコピーしました