【短歌に込める経営者の想い〔14〕】小原春香園 小原義弘社長

(歌人・高田ほのか) 

 小原春香園の小原義弘社長は、自らの足で茶農家を訪ね、直接生葉に触れることを信条としている。「ほんとうにいい茶葉の生葉は、手触りがちがう。そして、口にふくむとほんのり甘みがある。茶葉は、生葉の状態を知ることが重要なんです」。そうして、自ら選んだ茶葉に湯を注ぎ、ゆっくりと急須を回す。「こうすると、〝氣〟が入る。変わってくるんです」

 穏やかに語るその口調からは、経験に裏打ちされた矜持が透ける。

「ほんとうにいい茶葉の生葉は、手触りがちがう」と話す小原社長

 小原春香園は明治8(1875)年、小原義弘社長の曾祖父である小原専太郎さんが鹿児島にある芋畑でお茶を栽培したことに始まる。

 「当日、日本茶は静岡県の特産だったのですが、私の曾祖父は積極的な人で、『静岡でできるんやったら鹿児島でもできるやろ。芋ばっかりやなくてお茶もやってみよう』と、その栽培に乗り出したらしいです」。専太郎さんの勇気ある挑戦が、小原春香園の歴史の一歩目となった。

 昭和60年には、小原社長の叔父にあたる三代目の小原邦弘さんが、昭和天皇の御前でお茶の手もみを披露。その模様は「皇室アルバム」で放映され、鹿児島県規格茶小売販売店に認定される。鹿児島の本店を長男の邦弘さんが継ぎ、小原社長の父親の小原輝男さんは昭和26年に大阪の野田に小原春香園を構えた。

 「おやじは鹿児島から大量に茶葉を仕入れて、『これがお前の分や』って小学生のわたしと母に、紙の袋を70も80も渡すんです。袋に詰めたら紐で巻かないといけないのですが、それ用の紐なんかないから、こう、紙を両手でこすり合わせて長いこよりをつくってね。秋は夜もすがら作業するから、母はまだ40代やのに背骨が曲がってました」

小原社長が自ら選んだ茶葉に湯を注ぎ、ゆっくりと急須を回す

 1995年、小原社長が39歳のときに父親の輝男さんが亡くなる。彼は新茶を仕入れるため、ひとり飛行機とバスを乗り継いで鹿児島に向かったという。「バスに揺られていたら、『この先ひとりでやっていけるんやろうか』と不安になってきてね。そんなとき雨が降ってきて。窓をつたう雫を見ながら、俺の心と同じやな、なんて思いましたね(笑)」

 そのときに知り合った鹿児島の茶屋問屋の人たちとの出会いが、彼の人生を支えることになる。以来、火入れの研究を25年以上ともに続けているのだ。

 「お茶は、三煎まで美味しく出るものが理想です。だからこそ、毎年変わる生葉に合わせた火入れの技術がものをいうんです」

 小原社長の所作を見ているとよく分かる。お茶を淹れる行為そのものが表現であり、それが細部まで美しいほど、お茶も美味くなるのだ。

 お茶の香りに満ちる店のなか、ひとつの歌が生まれた。

ぬばたまの夜を急須に回したりふふめば腹の据わりたる氣よ

小原社長(右)と高田ほのか

【プロフィル】歌人 高田ほのか 大阪出身、在住 短歌教室ひつじ主宰。関西学院大学文学部卒。未来短歌会所属 テレビ大阪放送審議会委員。「さかい利晶の杜」に与謝野晶子のことを詠んだ短歌パネル展示。小学生のころ少女マンガのモノローグに惹かれ、短歌の創作を開始。短歌の世界をわかりやすく楽しく伝えることをモットーに、短歌教室、講演、執筆活動を行う。著書に『ライナスの毛布』(書肆侃侃房)、『ライナスの毛布』増補新装版(書肆侃侃房)、『100首の短歌で発見!天神橋筋の店 ええとこここやで』、『基礎からわかるはじめての短歌』(メイツ出版)  。連載「ゆらぐあなたと私のための短歌」(大塚製薬「エクエル(EQUELLE)」)