
お菓子屋の息子として生まれた蟻田剛毅社長にとって、お菓子は特別な日にも食べるものというより、いつもそばにある存在だった。創業の象徴ともいえるクレープ・シュゼットは、オレンジリキュールが入っている。子どものころ口にすることはできなかったが、作りあげられるその光景を、いまも鮮明に覚えているという。「クレープをグランマルニエでフランベすると、その瞬間、フライパンから青い炎が立ちのぼる。お客さまの前であまく、大人びた香りが広がっていく様子は、小さな舞台を観るようでした」

忙しい父親と食卓を囲む機会は多くなかったが、たまに会うと学校の成績より新しいお菓子の話をしてくれたという。「父は、人を驚かせるのがほんとうに好きな人でした。『こんなお菓子を考えてるんやけど、どう思う?』なんて相談しているようで、僕の反応を楽しんでいたり、帰宅した僕を驚かせようと、よく玄関の陰に隠れていました(笑)」
「一人でも多くの方にお菓子で驚きと喜びを届ける」。いくつになってもいたずら好きの少年のような蟻田社長の父親が、そんな理想をもって芦屋にひらいた喫茶店「アンリ・シャルパンティエ」が、シュゼットの原点だ。
大学卒業後、蟻田社長は広告会社・電通に入社する。当初は家業を継ぐつもりはなかった。ところが、電通で菓子メーカーのパンフレット制作を担当したとき、思いがけない発見があった。お菓子の話になると、自分でも驚くほど言葉が出てくるのだ。材料や味の違い、食べる楽しさを説明すると、得意先が喜んでくれる。考えてみれば、子どものころからお菓子を食べながら両親の帰りを待つのが、蟻田社長の日常だった。
「自分を一番活かせるのは、お菓子の世界なのかもしれない」。そう気づいたとき、父の働く姿が浮かんだ。お菓子で人を喜ばせるために面白いことを考え続けるその表情は、いつも笑顔だった。
10年間のサラリーマン生活の後、父親に頼みこみ、シュゼットに入社。やがて経営に関わるようになるが、その経営状況はきわめて厳しかったという。「ちょうどそのころ、リーマンショックが起きたんです。当時は拡大路線をひき、人や設備に大きな投資をしていたため、競合他社よりも打撃が大きかった。また、そうした現実から目をそらす体質だったこともあり、業績向上のための対策も遅れていました」
売上は伸び悩み、商品だけが増え続ける日々。そこで蟻田社長が導き出した結論は、意外なほど単純なものだった。「最後の最後、一番大切なものに絞る。やることより、やらないことを決める」
そうして全ての商品を見つめ直していくなかで最後に行きついたのが、フィナンシェだった。1975年の誕生以来、素材や製法にこだわり続けてきたバターとアーモンドの芳醇な香りが広がる、アンリ・シャルパンティエ自慢の焼き菓子。「最後に頼るべきものが、その会社の文脈だと考えました」
もうひとつ、シュゼットを代表するのが、生ケーキだ。創業以来、全ての工程がパティシエの手により作られている。ベルトコンベアなどが全く見えない現場は効率だけを考えれば決して合理的とは言えないが、蟻田社長は言う。「人が減っていく時代だからこそ、職人による手仕事に対して価値がつく。弊社のものづくりの姿勢は、近い未来、必ず大きな強みになる」。そのまっすぐな目は、確信に満ちていた。
焼き菓子と生菓子の両方を手がけ、年商約260億円を超える業績は世界でも極めてまれだ。多くのお菓子ブランドが日持ちのする商品へと舵を切るなか、なぜ、あえて困難な道を進み続けるのか、蟻田社長に問いかけた。すると、少し照れたように「十年後、二十年後にでも、あの会社は面白いことやってるなって言われたら嬉しいんです」と微笑んだ。お菓子の力を心底信じているその笑顔に、わたしの中にあった疑問があまく溶けてゆく気がした。
今日も喫茶アンリ・シャルパンティエでは、ちいさなフライパンから青い炎が立ちのぼる。そうして、お客様の表情は驚きから、やがて笑顔に変わっていく。
「一人でも多くの方にお菓子で驚きと喜びを」。1969年に灯ったその小さな炎は、いまも静かに燃え続けている。
注がるるあまい炎に目の奥のwonder to smile 炎々の青よ








【プロフィル】歌人 高田ほのか 大阪出身、在住 短歌教室ひつじ主宰。関西学院大学文学部卒。未来短歌会所属 テレビ大阪放送審議会委員。「さかい利晶の杜」に与謝野晶子のことを詠んだ短歌パネル展示。小学生のころ少女マンガのモノローグに惹かれ、短歌の創作を開始。短歌の世界をわかりやすく楽しく伝えることをモットーに、短歌教室、講演、執筆活動を行う。著書に『ライナスの毛布』(書肆侃侃房)、『ライナスの毛布』増補新装版(書肆侃侃房)、『100首の短歌で発見!天神橋筋の店 ええとこここやで』、『基礎からわかるはじめての短歌』(メイツ出版) 。連載「ゆらぐあなたと私のための短歌」(大塚製薬「エクエル(EQUELLE)」)
