「ヒヤ、ヒヤ、ヒヤの、ひや・きおーがん」のCMソングは、多くの人々の記憶に残っているだろう。赤ちゃんの夜泣きやかんむしに効く薬として、樋屋奇応丸は大阪・天満の地に生まれ、400年以上も続いてきた。昨年9月、歴史ある樋屋製薬(大阪市北区)の16代目に就任した坂上聡太社長にこれまでの歩み、そして未来について聞いた。(佛崎一成)

─樋屋製薬の歴史は古い。創業は1622年。豊臣家が滅亡した大坂夏の陣からしばらくしたころだ。
初代の坂上忠兵衛が大阪・天満で「奇応丸」を作りはじめてから400余年。私で16代目になる。
─16代目とはすごい。しかも一族で継承しておられる。
確かに、これだけ長いと代々継いでいくのは思いのほか大変だ。突然、病気で亡くなることもあるし、若くして社長にならなければならないこともある。老舗企業にとっては、現代の市場にどう受け入れてもらうかを練る以上に、いかに継続させるかが大事なテーマになっている。
─ところで、樋屋奇応丸はどういう形で始まったのか。
現在の本社は創業時から同じ場所にあるが、大川に架かる天満橋は創業時はもっと東寄りに架かっていた。つまり、本社前の道は昔、大阪城と大阪天満宮をつなぐ裏参道であり、天満橋を渡るとすぐ右手に見える目立つ場所にあった。ここで参拝客の土産物屋を営んでおり、小さくて飲みやすい子どもの薬として奇応丸を販売していた。
─奇応丸はそもそもどうやって生まれたのか。
日本の奇応丸を語るには、遣唐使の時代にまで歴史をさかのぼる必要がある。ご存知のように、遣唐使は船で使節団を中国(当時の唐)に送り、中国文化や仏教的な教えなどを日本に持ち帰る役目を担っていた。その中で、7753年に中国から鑑真を連れ帰ったことにはじまる。実は鑑真はそのとき、日本に太鼓を持ち込んだと言われており、その太鼓は奈良の東大寺に置かれていた。
数百年が経ち、ボロボロに破れた太鼓を東大寺で修理していたところ、中から薬方が見つかった。その薬方を頼りに薬を作ってみると、諸病に対して優れた効き目、いわゆる「奇効」(きこう)が見られたことで、奇応丸と名付けられたと言われている。
─当時は何の薬だったのか。
樋屋奇応丸と聞くと、子どもの薬のような印象があると思うが、当時は不老長寿の妙薬として高貴な人々に親しまれていたようだ。今でいう牛黄(ごおう)や高麗人参のような高貴薬の部類だ。書物にも書かれているが、一丸あたりの単価もすごく高価だった。
そこに初代が目をつけ、粒の大きさを小さくして一般市民にも手の届く価格で販売したのがはじまりだ。
─奇応丸を販売していた会社は他にもあったのか。
当時は多くあったようだが、現在はほとんど残っていない。元をたどれば東大寺でもそうだし、さまざまな名称で奇応丸は販売されていた。明治以降も複数のメーカーがしのぎを削っていた。
─樋屋奇応丸がこれだけ長く続いた背景は。
大阪天満宮の存在が大きいだろう。実は薬と神社は昔から密接な関係にあった。神社に病気回復の祈願に行き、帰りに薬を買うのがお決まりのパターンだった。大阪天満宮と当社は昔からそういう関係にあった。
─確かに神社と協力している老舗企業は多い。今も続いているのか。
今も協力していただいている。樋屋製薬では化粧品も販売しているが、安産祈願に来られた人に、その化粧品を配っていただいたりもしている。
大阪天満宮とは初代から付き合いがあり、2代目の1689年には記帳台を寄進している。今も現物が大阪天満宮に存在しており、大きな机ほどのサイズで迫力がある。
─2024年9月に社長に就任されたが、歴史が長いだけに100年スパンでの経営を考えておられると思う。どのように経営していかれるのか。
他の業界であれば、どんどん変わっていかないと生き残れないという話になると思うが、われわれの場合は少しばかり特殊だ。樋屋奇応丸はいわゆる小児五疳薬(しょうにごかんやく)というカテゴリーに属するが、この部類の製品は数少ない。樋屋奇応丸が多くのシェアを占めるため、樋屋奇応丸が無くなってしまうと小児五疳薬が手に入りにくくなってしまうわけだ。将来に渡って小児五疳薬を残していくのがわれわれの責任だと思っている。
このため、存続がキーワードになるが、存続させるためには、やはり多くの人に奇応丸のすばらしさを知っていただく必要がある。
─風化させないために、どのような努力をされているか。
主には子育て世代のいろいろなイベントに参加している。アンケート調査を幾度となく重ねているが、樋屋奇応丸を知っている人は6〜7割だ。ところが、それが夜泣きやかんむしに効く薬だと知っている人は3割くらいにまで落ち、東京では2割を切る。つまり、10人のうち2〜3人しか知らないのが現状だ。
─我々の時代にはCMの歌が今も記憶に残っており、抜群の知名度があったが。
正直、われわれとしては樋屋奇応丸という名前を知ってもらいたいよりも、日本の伝統薬で、夜泣きやかんむしに効く薬が存在することを、まずは現代の子育て世代や、これから子育てをされる未来の世代に知ってもらう必要がある。
こうした背景を踏まえ、先ほどの企業として何を変えるかという話をさせていただくなら、奇応丸という物自体は変えない。ただ、伝え方については時代に合わせたコミュニケーション手法に変えていかなければならない。
─社長の中にアイデアが。
昔のような「夜泣き、かんむしに効く樋屋奇応丸です」という伝え方ではなく、樋屋奇応丸に繋がる導線を整えている。
例えば、ヒヤドットは妊娠中や出産後、または乳幼児のデリケートなお肌をケアする乳液クリームなのだが、コアターゲットは妊娠中の人となる。さらに、次期商品に産後ケア、具体的には授乳関係の製品開発も進めている。
つまり、妊娠された頃から樋屋製薬とのお付き合いを始めてもらい、出産後のケア、そして赤ちゃんの夜泣きへと、奇応丸に繋がる道筋をつけていこうと考えている。
日本の出生数が現在70万人なので、少なくともそこにだけは認知を広げ、奇応丸を知ってもらえる流れを作りたい。
─なるほど。コア製品は奇応丸だが、周辺の商品を整えて物語を固めていくことで、結果的に奇応丸の普及を狙おうということか。
そのためにも、妊婦の相談相手となる助産師、産婦人科医、看護師を味方につけたい。現在、学会などに樋屋製薬として出させてもらっている。その場で、薬局やドラッグストアで処方せんがなくても購入できるOTC医薬品に、赤ちゃんの夜なきなどに効く薬があるのを知っていますか?と説明している。
─ところで、夜泣きに効くものは他にあるのか。
夜泣きという症状は、赤ちゃんがたった今、体や環境に不快感を感じているのが原因になっていることもあるし、昼間の刺激が影響しているケースもある。つまり、原因はあやふやということだ。原因が特定できないから西洋医学での対症療法は難しく、やはり東洋医学のアプローチが多くなっている。
─SNSなどを見ていると、夜泣きに関する悩みを抱える人は多いようだ。
夫婦共働きが主流となり、地方から都会に出てくる人々も増えたので昔のように子どもの世話を親に頼ることも難しくなった。
共働き夫婦が二人で子どもの面倒を見なければならない状況で、悩みの約半数は、赤ちゃんの寝かしつけだったり夜泣きだったりする。それが原因で、眠くても寝られない、仕事をしたくてもできない状況に追い込まれている家庭が多い。
そんな中、関西では長年のCMの影響などもあり、「夜泣きには樋屋奇応丸やで」などとSNSのやり取りで広がっているのもありがたい。関西弁の育児編のようなランキングがあって、当社の樋屋奇応丸が4位に入賞していたり。その後、いろいろ検索してみると「樋屋奇応丸は関西の方言ですってAI(人工知能)が書いていたんですけど」という消費者がいて「いや、違う違う、これ商品名やで」とツッコむ消費者もいて(笑)。ポジティブに親しまれているのはうれしい。
―最後に。社長の意気込みを。
先ほども話したが、樋屋奇応丸は400年も日本人に親しまれてきた伝統薬だ。対象となる若い世代へ継続的に認知を広げる仕組みをつくり、小児五疳薬を日本の未来に継承していくことがわれわれの使命だと考えている。

樋屋製薬の概要
初代坂上忠兵衛が1622年に大阪・天満で「奇応丸」の創製を開始。1724年の享保の大火、1827年の大塩平八郎の乱、1945年の大阪大空襲という歴史的な出来事で、社屋が3度消失する事態にも遭った。1897年に樋屋合資会社を設立(出資金8千円)し、近代的な会社の形として再出発。1916年には「奇応丸」から小児良薬「樋屋奇応丸」に処方名を正式に変更。43年には樋屋合資会社を解散し、樋屋製薬株式会社を設立(資本金60万円)。59年に第1回ABCミュージカル・スポット・コンクールでの優勝作品としてCMソング『樋屋奇応丸』がスタート。2022年には創業400周年を迎えた。
樋屋製薬株式会社
大阪市北区天満1-4-11/TEL.06(6351)3031